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追悼 冨田勲さん

 平成28(2016)年5月5日、作曲家・シンセサイザー奏者の冨田勲さんが亡くなりました。

 冨田勲さんは、昭和7(1932)年4月22日東京生まれ。慶応大学在学中から作曲活動を始めました。テレビや映画のBGMを書く、所謂劇伴音楽家としてのキャリアが、量及び期間とも大と思われます。

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 ただ、私が冨田勲(とみた・いさお)さんのお名前と成果物をはっきり意識したのは、moog III p、system 55、Roland SYSTEM-700といったシステムシンセサイザー(KYOTO FESTIVAL of MODULAR 2015に行ってきました 参照)等とMTR(マルチトラックレコーダー)を駆使して、一人多重録音という形で制作されたアルバム「ダフニスとクロエ」(作曲:モーリス・ラヴェル)でした。

 その事もあり、私としてはこの記事において、シンセサイザー奏者としての冨田勲さんについて触れたいと思います。

 なお、冨田さんは1980年代初頭、ご自身の職業というか肩書きを、“サウンドパフォーマー”(音の演出家)としていました。古山俊一さんの「シンセサイザーここがポイント」(昭和57:1982年音楽之友社刊)の裏表紙のコメント等で、その表記が見えます。

 昭和54(1979)年のクリスマスに知人宅に行ったおり、そのかなり年上の兄上の部屋で、冨田さんの「ダフニスとクロエ」を聴きました。音に誘われるように勝手に部屋に入ってきた私が神妙に聴いている事に気付いた兄上が、「この鳥のさえずりやらバイオリンやら口笛やら清流の音やら…みんなシンセサイザーっていう楽器から出てるんや。たくさんの音が同時に鳴ってるけど、弾いている人は一人なんや」と説明してくれました。

 これがシンセサイザー奏者としての冨田勲さんの作品、そして、シンセサイザーという楽器や一人多重録音という手法に興味を持った瞬間でした。

 小学6年生だったその冬休みを、私はもっぱら冨田さんやシンセサイザーについて調べる事に費やしました。件の兄上にレコードを借りたり、本屋でシンセ関連の書籍を立ち読みし、そして、生まれて初めて楽器店に出かけてシンセサイザーに触れました。昭和55(1980)年、1980年代の幕開けを、冨田さんやシンセサイザーに対する関心が脳裏に満ちた形で迎えました。

 アルバムライナーノーツでの冨田さんの言葉や実際にシンセに触れてみて、他の楽器と根本的に異なり、この楽器には固有の音が無く、自分で作る事ができる、そして多重録音という方法を使えば、自分一人でバンドやオーケストラを持つ事ができるという事を理解しました。それまで楽器演奏に全く興味がありませんでしたが、自分の楽器はこれしかないと思いました。

 そして、意識してテレビやラジオから流れてくる音楽や効果音を聴いてみると、実はその時点で既にシンセサイザーはかなり使われていました。しかしながら、それらが私の心に響かなかったのは、冨田さんのシンセと異なり、それらの音がシンセ音である事を誇示するような、特性を押し出す、あるいはそれに依拠した感のあるものばかりだったからでした。

 本来“有機的”という言葉に対義語は無かったはずなのですが、シンセ関連の書籍で“無機的”という言葉が使われ始めていました。いつの間にか私の周りにあふれていたシンセサイザーを使った音楽や音は、遺憾ながら無機的でした。

 冨田さんのシンセ演奏には、音色の径時変化の緻密なシナリオ、丁寧な音量のコントロール、擦弦楽器風の音色で弓の返し時のような音の途切れが入れられていて、マニュアル感がありました。また、最初に気づかされたのは東祥高さんや姫神せんせいしょんの吹奏楽器風の音色でしたが、冨田さんのそれにも、息継ぎの間(ま)がありました。シンセには弓の返しも息継ぎも物理的に全く必要ありませんが、冨田さんの脳裏で鳴っている音色は、弓は上げ下げされ、息を吹き込めば今度は吸いたくなるという現象が起きていて、それをシンセに込めたのではないかと思いました。

 平成10(1998)年のある深夜、野村芳太郎監督の映画「しなの川」(昭和48:1973年)のテレビ放映を観ました。冒頭鳴りだしたオーケストラとコーラスの音楽が、なんだか冨田さんのシンセ作品のような雰囲気だったのですが、オープニングスタッフロールに「音楽 冨田勲」と出ました。楽器が変わっても冨田さんの音の特徴は現れるという事を知りました。

 また、私は聴けていないのですが、かつて冨田さんが編曲した「展覧会の絵」(作曲:モデスト・ムソルグスキー)が、後のシンセ版アルバム「展覧会の絵」とそっくりだという話も目にしました。

 minimoog(ミニモーグ、否、この場合、ミニムーグと発した方がいいでしょうね)の音、prophet-5の音…あるはずの無い“シンセサイザーの音”とやらが汎世間的に凝固して、皆で仲良く使いだして今に至っているのですが、冨田さんはアコースティック楽器や人声ですら、音にご自分をにじませる事ができていました。

 そういえば、冨田さんの有名な言葉、

このシンセサイザーはどんな音がするのかという質問は、このバーベキューセットはどんな味がするのかと言っているのと同じ事

は、シンセサイザーの音はその奏者の中にあるはずという考えを、端的に表現していると思います。

 私が冨田さんやシンセに興味を持った頃、デジタルシーケンサーは世に出ていたのですが、それを使った音楽のことごとくが、いかにも打ち込みといったものばかりでした。冨田さんの「ダフニスとクロエ」は、その演奏の多くをデジタルシーケンサーRoland MC-8で行なっていたのですが、手弾き以上の繊細な表現が為されています。デジタルシーケンサーの特性に乗っかった無機的な表現ではなく、脳裏で起こっている事をMC-8に打ち込んだという事だと思います。

 ちなみに1980年代初頭、ご自身をキーボーディストだと思いますか、という問いに対して冨田さんは、

キーボードを鍵盤だけでなくMC-8のテンキーも含めるという事でしたら、私はキーボーディストでしょうね

と答えています。

 それにしても冨田勲さんが、なぜかくもオリジナリティを発露させ続ける事ができたか…もちろん先天的な適性が大だとは思うのですが、それ以外に、冨田さんが昭和7(1932)年、つまり、所謂昭和ヒトケタであるという事も関わりがあると思います。

 冨田勲さんは、昭和20(1945)年8月15日の終戦を13歳で迎えました。この世代は、あの日を境の世の中の価値観の変化をうまく受け入れられず、その後、種々のセオリーを信じきれないところがあるといいます。

 こうだと決まっていたものが、ある日突然覆(くつがえ)された、という体験は、その後、少なくとも音楽家としての冨田さんに、むしろプラスに働いたのではないでしょうか。

 クラシックはこういう形で演奏されなければならない、オーケストラの各楽器は音場上この位置に配されて聴こえていなければならない、シンセサイザー等電子楽器の音は「ピコピコ」「ブー」「ジュイ〜ン」「トキオ!」でなければならない…明確に定められた形(かた)であれ、世間がいつの間にか作り上げた“なんとなく”なお約束であれ、それらは自分の外での事であって、クラシック音楽をシンセで弾く、シンセに弓の上げ下げをさせる、息継ぎをさせるといった事は、自分がしたいからするのだ、という事なのだと思います。

 私から見て、シンセサイザーの音色で自分の世界を構築できたプロの演奏家のことごとくが日本人なのですが、その幾人かは既に奥津城の人になってしまいました。今、この訃報に接して、作品が残る限り冨田さんが精力的に活動している音楽家である事に変わりはないと思いつつも、シンセサイザーの使われ方に、残念ながら一つの終わりが来たという事を実感せざるをえません。

 子供の頃から今に至るまで何をやっても長続きしない私が、シンセサイザーとだけはこうしてつきあっている事、あげくこんなブログを10年以上書いている事は、原点が冨田勲さんだったからだと思います。

 私が持っている冨田作品の中で最も新しいものは、アルバム「惑星 ULTIMATE EDITION」なのですが、「銀河鉄道の夜」や、私が冨田さん、否、人類がシンセサイザーで演奏した音楽の中で最も美しい作品だと思っている「亡き王女のためのパヴァーヌ」を収めたアルバム「オホーツク幻想」等、冨田さんの近作も手にしたいと思います。

 素晴らしい音楽を聴かせてくれた事に感謝いたします。冨田勲さんのご冥福を祈ります。

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by manewyemong | 2016-05-10 22:57 | 音楽 | Comments(0)

シンセサイザー、デコラティブジャパン(絢爛な日本)文化、絵巻、屏風、浮世絵、都市散歩、神社が好きです。鈴木春信の春画「風流艶色真似ゑもん」にちなみました。


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