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十三湊の勃興と衰亡

 姫神のアルバム 「東日流(つがる)」に関する記事の前に、このアルバムの題材、中世十三湊(とさみなと)について考えてみました。アカデミズムとは無縁の私の珍説にすぎません。

 そもそもなぜ津軽半島の北の端に、かつて博多と並ぶような国際港があったのでしょうか。私なりに資料を漁って類推してみました。

 現代なら港なり空港なりの立地条件は、近くに大消費地があることが第一義だと思います。もちろん、東京から遠く離れた無農薬野菜の畑の中に新東京国際空港があるという例外はありますが…。

 しかし、船が鋼の船体と自由に動きまわれるエンジンを持たなかった時代、港が開かれる条件は、人間サイドの都合より自然環境に依るところが大でした。有力な政治家の先生のお力があれば、どこにでも技術とカネの力にものをいわせて駅や港や空港をつくる現代とは、勝手が違ったと思われます。

 当時と現代とでは良港の条件そのものもまるで違います。まず、現代の鋼製の汽船にとっての良港は、波が静かで港内の海底が深い入り江であることが挙げられます。鋼製の汽船は吃水が深く、また動力のスクリューは船尾の底付近にあります。港内の海底が浅いと船体が損傷します。

 十三湊が殷賑を極めた時代、船は木造であり、そして動力源はエンジンではなく、風まかせ(港内や無風時は水夫が櫓を漕いだ)でした。波の静かな入り江が良港であることには変わりありません。しかし、波の静かな入り江には木造船にとって恐るべき生物がいます。フナクイムシです。木造船に取り付いてシロアリのように喰い荒らします。

 木造船は長く停泊する場合、フナクイムシや水の侵食そのものから船体を守る為に、船体を陸に揚げておきます。カタパルトや注排水できるドックが無い時代、船を陸揚げするに当たっては、水深が浅くやわらかい砂地の海底から続く砂浜の方が容易です。

 それから、十三湖(じゅうさんこ)は広大であるにも関わらず、外海(そとうみ)との出入り口が、アルバム「東日流」に付属している小冊子の8ページ目にある写真のこの地点しかありません。海が荒れても港内への影響がある程度緩衝されるという環境です。また、この写真の右半分はいきなり日本海の外海です。外海が近いことも、十三湊が開かれたことの理由の一つでしょう。

 かつて日本は世界的な黄金の産出国でしたが、後世のバブル期の日本と違い、国内のゴールドのマーケットの規模はしれていたでしょう。黄金はあくまで装飾品の材料でした。日本国内より大陸との貿易の決済に黄金をあてた方が、粗利率は高かったでしょう。十三湊や平泉の繁栄は奥州産の黄金や太刀等と大陸の商品を交換することで築かれていきました。

 後世に至るまで、ともすると日本の黄金は海外に流れがちでした。それは江戸時代、鎖国政策がとられてからもそうでした。江戸幕府老中新井白石は、長崎出島でのオランダとの貿易のおり、決済に黄金を用いず海産物などで済ますことを推し進めました。

 次に、なぜ十三湊が衰亡したのかを調べ、考えてみました。木造船の良港の条件の一つに、水深の浅い、軟らかい砂地の海底であることは既に挙げました。こういった環境は、土砂の流入や流出の影響をもろに受けます。

 輪田泊(わだのとまり:現在の神戸港)は、東や南からの高波の度、港湾の土砂が流出していきました。そこで平清盛(たいらのきよもり)は、それを防ぐ為に経島(きょうがしま)という人工島を造らせました。輪田泊は、埋め立て工事によって問題を切り抜けられたのですが、十三湊は勝手が違いました。十三湊が欲した技術は、埋め立てではなく、大掛かりな浚渫(しゅんせつ)でした。そして、当時それは望むべくもない技術だったと思われます。

 伝説では十三湊は、室町時代初頭、興国元(1340)年に突如起こった大津波に飲み込まれ、瞬時にして滅び去ったと言われています。しかし、どうやら実際は、十三湖への土砂の流入が十三湊の港湾施設を使い物にならなくしてしまったようです。一夜にしてではなく、少しずつ、大雨や河川の氾濫の度に、砂が十三湖の出入り口を埋めていったと思われます。港湾を埋めていく砂の量に反比例して、十三湊の乗降客や貨物の取り扱い量は減っていったと思います。派手な滅亡劇ではなく、少しずつ衰退していったというのが真実のようです。

 アルバム「東日流」に付属している小冊子の8ページ目にある写真をみると、中央の十三湖の出入り口の部分が異様にせまい。そして浚渫と護岸工事が施されているのが視認できます。おそらく十三湖へ注ぎ込む河川が運んだ砂が、ある時期、この出入り口を完全にふさいでしまったのではないでしょうか。

 ちなみに支那の黄河は、干潮時、広大な干潟によって渤海と完全に寸断されてしまいます。上流からの土砂が河口を埋めてしまっているのです。

 あくまで私の推論ですが、十三湊の施政者や港湾技術者達は、十三湊に、いつか湊としての使命が終わる日が来るのを重々承知していたのではないでしょうか。そして十三湊の施政者は、十三湊の滅亡をソフトランディングさせる形での手を打ったのではないでしょうか。港湾関係者を少しづつ内外の他の湊町へ移したり、職業の転業を計って、“The day after”に備えたと私は考えています。

 彼等の歴史が忽然と途切れて見えるのは、ソフトランディングのプロセスを、第3者や後世の耳目にさらしたくない何らかの理由があったのかもしれません。そして、考え得る限りの対策を講じた彼等は、その日を、至極恬淡な心持ちで迎えたと思います。

 彼等が十三湖を後にしてどこへ行ったか定かではありません。北海道へ拠点を移したともいわれていますが…。彼等のその後の運命と、縄文中期に縄文時代で最も利便性に富んだ施設群を放棄した三内丸山の縄文人、そして、小松左京さんが書いた小説「日本沈没」の中の、国土を海中に失い、世界へ散って行った日本人…。私にはこの3者の運命がだぶります。彼等の“The day after”が気になって仕方がありません。

 一所懸命(今日では“一生”懸命という新造語の方が多く用いられる)という言葉に代表される鎌倉武士以来の日本人の土地への執着心を、縄文人同様、十三湊の人々も持っていなかったとは考えられないでしょうか。

 20世紀末の日本のバブル経済は、土地を担保にした紙切れが乱れ飛ぶ事で膨張していきました。そして、バブル崩壊の直接の引き金は、土地取り引きの総量規制でした。監督官庁サイドが無理な急ブレーキをかけたわけです。十三湊の施政者が為したようなソフトランディングさせるセンスは、20世紀末の日本の施政者には無かったようです。

 あの土地がらみの狂奔を、縄文人やかつての十三湊の人々はどう見るのでしょうか。自分達を見舞った運命をあるがまま受け入れ、最善の道を探す…。こだわりや執着心に足をすくわれている現代日本人より、彼等の方が自己を見舞った運命に対する謙虚さ、自己責任意識、実行力、フットワークの軽さを持っているように思います。そしてそれらは、今、我々にこそ求められているものではないでしょうか。

 「蘇る光芒 市浦村、浪漫街道 平成六年・市浦村勢要覧」でも、十三湊や十三湖について触れています。


「十三湊遺跡が国史跡に指定される」(「あおもりの文化財」より)
http://www.pref.aomori.jp/culture/tosaminato_sitei/tosaminato_sitei.html
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by manewyemong | 2006-01-05 09:57 | | Comments(0)

「あのシンセサイザー奏者が出しているあのシンセサイザー音はあのシンセサイザーで出してんのか!いっちょあのシンセサイザー買いにいくか!」よりも、「価値あるものを買うのではなく自分で価値を作れる人間は強い」(岡崎武志「女子の古本屋」より)でありたいと思います。


by manewyemong