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姫神の野外公演に関して(2)

 姫神の野外公演に関して(1)からの続きです。

 コンサートに足を運ぶ人には2種類あると思います。コンサートを“観に”行く人、そして“聴きに”行く人。私はもちろん後者なのですが、こういった事に関する象徴的な野外公演が、平成8(1996)年岐阜県郡上郡白鳥町(ぐじょうぐんしろとりちょう:平成16年、同郡7町村が合併して郡上市となりました)の白山長滝(はくさんながたき)神社でありました。

 姫神はこの神社の境内で、昭和63(1988)年、平成4(1992)年、平成8年といずれもオリンピックイヤーの夏に、「姫神白山夢幻奏」と題して公演を行っています。私が聴きに行ったのは平成8年の公演です。

 白山長滝神社で姫神の公演が行われた理由は、白鳥町石徹白(いとしろ)の白山中居(ちゅうきょ)神社に、奥州藤原氏3代秀衡が元暦元年(1184年)に寄進した金堂虚空菩薩像があることを縁としてだそうです。余談ながら神社で菩薩像を祀る事からも分かるとおり、この地区は明治の廃仏毀釈前の神仏混淆の形態を今に伝えています。

 会場の境内に足を踏み入れた瞬間、その環境に失望しました。客席と左側PAの間に大きな碑があるのと樹木の枝がかかっていたからです。これではステレオ音場の音量バランスがとれないなと思ったのですが、公演が始まると音の感触は私が予想したのと寸分変わらないものでした。

 もちろん右側の音量を下げるといった工夫はしたのかもしれませんが、最初から最後まで耳についた微妙な違和感が払拭される事はありませんでした。あの環境はあれだけの聴衆を集めてアンプやスピーカーを駆使した公演を行うには不向きな場所でした。

 視覚効果という観点から見れば、白山長滝神社境内は素晴らしい環境でした。本殿の裏にレーザー光線の装置を設置し、照射された光線が本殿の中を通って、聴衆の眼前に光の雲やサンスクリッド文字(白山長滝神社が神仏混淆されていた関係でしょうか)を描き出すといった演出がされました。森に覆われた半ば閉鎖的な空間故か、スモークが濃くこもったことが効果を増していました。境内の厳かな雰囲気と併せて、“観に”行った人はたいへん満足したのではないでしょうか。

 野外公演の負の側面の一つである、観る側の人間の緊張感の希薄さは、私が足を運んだほとんどの野外公演で多かれ少なかれ感じさせられました。特に平成6年の十三湖、平成9年の三内丸山遺跡での公演は、世間話に興じる者、うろうろ歩き回る者がいて、コンサートとしての体(てい)が完全に崩壊していました。

 長滝神社の公演でも、演奏が始まっているにも関わらず私語をしている人間がいたので、黙らせました。あの日あの公演に来られた方で、公演冒頭に一瞬、関西弁の甲高い怒号が飛び、客席から水を打ったように私語が途絶えたのをご記憶の方がいらっしゃるかもしれませんが、あれが私の声です。曲が始まっているにもかかわらず会話が出来る人間は、まぎれもなく“観に”行っているタイプでしょう。

 また長滝神社公演終演後、公演PR用ののぼりを盗んで行く連中を目にしました。あんな物を何に使うのか、何の値打ちがあるのかさっぱり分からないのですが、その行為を糾した所、連中の言い分は「ゴミになるよりいいじゃないか」でした。何に使うのか知りませんが確かに彼等ならゴミにはしないかもしれません。しかし物事には順番があります。

 こういう連中に限って姫神の公演の感想を聞かれて「心が洗われました」などとどこかから持って来た定型句を機械的に述べるしか能が無い。姫神の野外公演は神社仏閣の境内で行われる事が多かったのですが、神社の拝殿や寺院の本堂といった建物は、こういった連中にとって、果たして舞台セット以上の意味があったのでしょうか。吉本新喜劇の舞台上の海や山みたいに、単に背景に描かれた絵でもよかったのではないでしょうか。

 この記事の最初の方で挙げた歴史的見地からの会場選定は、こういった連中には全く意味が無いと思います。

 もし主催者側が音響にこだわる形で野外公演を行うのであれば、会場の選定はシビアに行うべきだと思います。さもなくば野外公演は観せるものと割り切るかでしょう。


白山長滝神社(「神社ふりーく」より)
http://www.7kamado.net/h_nagataki.html

白山中居神社
http://www.hakusanchukyojinja.org/
by manewyemong | 2006-12-27 22:19 | 音楽 | Comments(0)