映画「プリンセストヨトミ」を観ました

 映画「プリンセストヨトミ」を観ました。

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 TOHOシネマズ梅田のロビーに浮かぶ巨大なひょうたん。

 まだ公開中の作品であり、物語等を詳らかに記す事は出来ないのですが、モブシーンに参加したエキストラの一人としての視点も添える形で感想を記したいと思います。

 原作小説「プリンセス・トヨトミ」の設定を、若干変えたり、エピソードを省いたりしてしているものの、それはいずれもプラスになったという印象です。

 この物語に出てくる松平元とその父、真田幸一とその子大輔という二組の父子は、特に前者に設定の違いが加わったものの、それが大阪国の男が生涯2度体験するある儀式の哀しさを、むしろ際立たせたような気がします。このくだりは原作小説の最も魅力的な場面だと思っているのですが、映画は全く取りこぼしなく映像化してくれていると思いました。

 この儀式を語る大阪国首相真田幸一を演じる中井貴一さんの声音が、大阪国が存在したら、いつこの儀式を体験してもおかしくない年齢に達している私には、何だか心にしみてしかたがなかった。

 私は松平と真田が対峙する場面の撮影に居合わせたのですが、感情を抑えつつ互いの主張を展開する二人の役者さんの気迫が半端ではなく、何だか舞台を観ているような感じがしました。

 「プリンセストヨトミ」に父子というテーマを織り込むのは、子を溺愛した豊臣秀吉、父秀吉の事をよく知らないであろう秀頼、私生児として外に出され、大坂城に戻されて数ヶ月後、夏の陣の後に六条河原で斬られた国松という、哀しい父子三代の事が遠いヒントになったのではと私は思っているのですが…。映画では、国松はある登場人物の先祖と思われる徳川方の武将によって救われ、それが現代のプリンセストヨトミへ血脈(けちみゃく)が通った理由となっています。

 映画「珈琲時光」や「森崎書店の日々」は、鬼子母神や神田神保町を舞台にした“町の映画”でした。大阪国が起動するまで諸々の出来事が進行したのは、実はほとんど空堀界隈という限られた地域での事であり、そういう意味では「プリンセストヨトミ」もまた空堀界隈という町の映画なのかもしれません。

 空堀界隈の映像にテレビの“街探訪系”の番組のような“いかにも感”が無く、ここに住むキャラクター達の生活圏として空堀界隈を捉えていると思いました。真田大輔が「女の子になれますように」と願をかけ続ける榎木大明神や古民家、坂道の石畳といった、映像として美味しいだろう思われるものが、ほとんど登場しないのがその理由です。これは先に挙げた「珈琲時光」も全く同じで、鬼子母神のシーンに鬼子母神とあの参道が全く出て来なかった事に通ずる感じがしました。

 もっとも、綾瀬はるかさん扮するミラクル鳥居が、大阪国が起動して人影が消えた大阪市街を彷徨するシーンは、逆にいかにもな所ばかりでしたけど…。会計検査院の三人の食す物が、大阪国総理の経営する太閤のお好み焼き、大阪城公園のたこやき、ディープサウスの串カツというのも“いかにも感”ですね。

 ちなみにこのたこ焼き屋のベンチに座って松平が天守閣を見上げるカット、昨夏ほぼ同じ場所に私もいて同じように見上げていたのですが、こんな事に遭遇いたしました。

 もし「プリンセストヨトミ」がもっとはるかに低予算の映画だったら、舞台を完全に空堀界隈に限定して、例えば怪獣が全く出て来ない怪獣映画「大怪獣東京に現わる」のように、あの赤く浮かび上がる天守閣、鳥居が彷徨する大阪市街、府庁前や大阪城のモブシーン等を、もっぱら伝聞としてのみ描くといったやり方ができるかもしれません。映画ではなく、舞台ならそうなるのでしょうね。

 最後に一つ。日本国から大阪国へ毎年決まった額のカネが流れているという設定は、所謂“いっちょかみ”で妙なところで当事者意識を発露させるくせに、カネの話になると途端に吝(しわ)くなる大阪人の気質に対する皮肉ではないでしょうか。


映画「プリンセストヨトミ」
http://www.princess-toyotomi.com/

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by manewyemong | 2011-06-03 10:50 | | Comments(0)