BGMとしての姫神(3)

 BGMとしての姫神(2) からの続きです。

 番組を見る側の人間の思惑にも、釈然としないものを感じます。番組そのものに対する興味がはなから無く、どこそこで姫神が使われた、どの曲が使われた、何曲使われた、といった事にのみ関心を持っている連中に対してです。

 人文を対象にしたドキュメンタリーの場合、被写体に踏み込んでいく形で取材が為されます。当然、被写体にとっての切所や暗部に関する事柄も多い。しかるに、何かを口にほおばり、ジュースなど飲みながら、被写体のシリアスな場面の映像を、ただ姫神の音楽の為の添え物としか見ず、姫神の曲がかかるのを今か今かと待ちわびる…。こんな連中の見ている番組の被写体にはなりたくないものです。

 別に端座して視聴せよ、と言っているのではありません。番組と姫神の音楽とを主客転倒して考えるなということ、そして、ドキュメンタリーにおいてブラウン管越しに見える映像は、この世界のどこかから持ってきた現実の事象(やらせも多々ありますが…)であるということを理解すべきだと思います。

 もちろん、テレビは空気や温度やにおい等を伝えてはきません。あくまで視覚と聴覚、それも取材者というフィルターを通したもののみです。現実そのものから多くの要素が濾過され除去されたものが放送される訳です。しかし、例えば野辺送りのカットで、姫神の何とかという曲が流れてきたという事にのみ関心を持ち、被写体の心情に思い至らない人間は、やはり、感性、想像力、思考能力が甚だ貧困なのではないでしょうか。

 ここ数年、現実とバーチャルの区別をつける事ができない人間の問題がクローズアップされています。それはえてしてバーチャルな事柄を現実世界に持ち込む事の方のようです。しかしながら、その逆もまたしかりです。そちらの方も大いに問題です。現実の事象を、レンズなりブラウン管なりを通すと、もうアニメーションかドラマと混同してしまう。BGMとしての姫神(2)で採り上げた「姫神が紡ぐ〜」の制作者にも、BGMで姫神の曲が鳴るだけで愚直に喜ぶファンにも、釈然としないものを感じます。

 放送関係者には、ただ単なる消費材・嗜好品としてのドキュメンタリーではなく、視聴者が自らの身の上を顧みるような番組を作って欲しいと思います。BGMとしての姫神の音楽が、遺憾なく力量を発揮できる番組はそんな番組だと思います。
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by manewyemong | 2005-12-13 22:06 | 音楽 | Comments(0)