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予備知識は必要か?(2)

 予備知識は必要か?(1)からの続きです。

 私は姫神の作品のうち、歴史等現実の事象に関連するタイトルの付されたものについて、あえてその事を念頭において作品を聴くようにしています。前提・予備知識を意識の端に置く形で聴いているのです。

 「郵便配達は2度ベルを鳴らす」という映画がありました。映画の内容とこのタイトルとは全く関係無いものでした。映画の内容と全く関係無いものを、という意図でこのタイトルが付されたそうです。

 例えば「マヨヒガ」「SEED」「青い花」といったタイトルは、この映画のタイトルと同じ発想で付されても構わないと思います。しかし、歴史等の現実の事象に関連するタイトルとなるとそれではいけないと思います。歴史も文明も人の生き死にも物語ではなく文字通り現実の事象です。我々はその中に観念的な歴史ロマンなどではなく、実利的な教訓を探すべきではないでしょうか。そしてその第一歩として、私はタイトルにまつわる事柄に関する私見を確立する為に様々な関連知識を探します。

 例えば「北天幻想」というタイトルは、狭い意味では前九年・後三年の役から奥州藤原家の滅亡に至る顛末を、そして、広い意味ではヤマト朝廷支配の外にあった、日高見国の時代から現代に至るまでの東北地方を想起させるものです。これらの事柄に関する資料を私なりに漁って自分なりの北天観を固めていきました。

 また、「風の縄文」シリーズも、我々日本人がかつて生きた縄文時代とその生活、文化、そして人間という現実の事象が絡んでいます。いずれ書くつもりですが「風の縄文」シリーズと私の縄文観は、完全に趣を異にしています。

 しかし、これまでの私の記事をご覧になって、セオリーに毒されてイメージを限定されてしまっている、とお感じになったでしょうか。私はむしろ前提・予備知識を意識の端に置く中で、曲から受けたイメージを拡大できたような気がします。

 もちろん、現実の事象もヘッタクレも無い、タイトルにはこだわらない、という聴き方もあるとは思います。私の中で、事象にこだわった場合の感想と、そうでない場合の感想が同居していることはままあります。しかし、それは我々作品の受け手に許される話であって、送り手は自作に現実の事象にまつわるタイトルを冠するなら、事象の部分に徹頭徹尾こだわってもらわなければ、それなりに熟考してもらわなければ…。事象にこだわった上で「縄文」というタイトルを冠した作品の中で、「雲に乗りた〜い」「とどけ天ま〜で」などと唄われたら、私としては、送り手の現実の事象に対する想像力の限界を思わざるをえません。

 以前、アイヌ人の歌をいくつか聴いたことがあるのですが、その歌詞は観念的なものではなく、実利的なものでした。ネイティブアメリカンの歌もそうでした。歌が単に嗜好品ではなく、生活上の役割を負っていました。おそらく狩猟採集民族は、観念的な歌なんか唄っているひまは無いのでしょう。大自然に感謝はしても期待はしない…。基本的に狩猟採集民族だった縄文を讃え唄う歌詞のセオリーに、「風の彼方」の歌詞は合致しないと思います。

 参考までに、現実の事象に関する私見を確立する上での資料として、小説やドラマ、漫画等はあまり信用し過ぎない方がいいと思います。当たり前の話ですが、送り手の恣意が作品中に遠慮無く込められているからです。年表やルポルタージュ、写真資料といった送り手の意図が希薄なものの方が、私見を確立する上で適当だと思います。

 例えば大河ドラマ最低作の呼び声高き「炎(ほむら)立つ」は、奥州藤原氏4代泰衡の描き様に関して、牽強付会もはなはだしい作品でした。当時裏で「天才たけしの元気が出るテレビ」(視聴率から言えばこちらが表)をやっていたビートたけしさんも「どうやったらあんなくだらないものができるのか」とエッセイ「元気が出ないテレビ」(新潮文庫刊「落選確実選挙演説」収録)に記されています。いずれ、アルバム「炎」に関する記事でこの事にもふれたいと思います。

 そういえば、単に知識を自分のアタマにねじ込むだけで、自分の思考や感性で咀嚼しない人間、フォアグラに用いられる可哀相なアヒル(身動きできないケージに入れられて、エサを口にねじ込まれる)みたいな受動的な感性を持った人間が世間にはいます。

 「次の中から選びなさい」とか「YESかNOか」でしか頭を使っていない人間は、結局、外的要因によって選択肢を目の前に提示されないと何もできない。自ら望んで音楽の話をしているのに、話題が感想になると予め用意された選択肢「感動しました」「よかったです」「すばらしい」そして最近では「癒されました」なんてのもある…からつまみ上げることしかできない。結局、自分の言葉で何かを語る事なんかできない。甲乙の評価を機械的に下すだけ。そのくせ思い入れ、思いの丈はくどくど語る。

 以前、ある酒食の席で、「(某シンセ奏者の)○○いう曲聞いたしゅんっかんっ、ぶう〜わあ〜来たんや」と言った人間がいました。随分大仰な言い方ですが結局これ、「○○を聞いて興奮した」と言っているに過ぎない。特別サービスして「興奮」を「感動」と訳してやってもいい。しかしながらいずれにしてもこの無駄に大仰な話の中身は、全くもって空っぽです。所謂“言葉にならない感動”とやらの、これが正体です。

 意味ある言葉を発していきたいと思います。

 予備知識は必要か?(3)へ続きます。
by manewyemong | 2006-09-23 06:48 | 音楽 | Comments(0)