カテゴリ:場( 37 )

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 大阪市天王寺区生玉町の生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)、いわゆるいくたまさんで、毎年7月11、12日、生國魂祭(いくたままつり)が行われます。

 元々、生國魂神社は、今の大阪城天守閣付近にあったそうなのですが、天正11(1583)年、豊臣秀吉の大坂(おおさか)築城にあたり、現在地に移転しました。

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 生國魂祭の12日本宮(もとみや)に、いくたまさんから大阪城へ御鳳輦(ごほうれん)が神幸するのですが、今年平成26(2014)年は、そのおり、昭和20(1945)年より絶えていた度御列が復活するそうです。

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 京阪電車の各駅で配布されている今年の生國魂祭のフライヤーの、昭和初期と思われる画像とイラストを参考に、度御列の編成を記すと、枕太鼓、獅子舞、騎乗の猿田彦、「生國魂祭」と大書された祭礼旗、「生國魂神社」社号旗、洋風馬車(馭者はシルクハットを被っている)、月旗(げっき)、日旗(にっき)、御榊(おんさかき)、八本鉾(はちほんほこ)、御翳(おんさしは)、御鳳輦、菅御翳(すがのおんさしは)、御鉾(おんほこ)、神馬、金神輿、銀神輿となっています。

 神事なのに洋風の要素が混じっている所等、なんだかアニメ映画「千と千尋の神隠し」の世界みたいですね。

 デコラティブジャパン風味この上ない光景が展開する事必定の神事だと思います。

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秀吉が守る「生國魂」夏祭り行列復活
(YOMIURI ONLINE 2014年6月18日記事より)
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO004352/
20140619-OYTAT50060.html


神輿「御鳳輦」を公開 生國魂神社
(YOMIURI ONLINE 2014年6月25日記事より)
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20140625-OYTNT50025.html

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by manewyemong | 2014-06-21 09:47 | | Comments(0)
 私が子供の頃から佐太天神宮とならんでお参りに来ていた津嶋部神社の、平成25(2013)年9月26日の夕刻です。

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 津嶋部(つしまべ)神社は、大阪府守口市金田町6丁目にあります。府道15号線に面しています。

 府道13号(旧国道1号)線を跨いだご近所に、かつて記事を書いた佐太天神宮仁和寺氏神社があります。

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 鳥居に架かった「式内 津嶋部神社」の扁額。

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「寳暦(ほうれき)二壬申(みずのえさる)年六月吉日再建之」
と記されています。宝暦2年6月は西暦1752年です。

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 津嶋部神社縁起。

 祭神は津嶋女大神(つしまめのおおかみ)、スサノオノミコト、菅原道真公です。

 淀川河畔には、菅公を祀る神社が数多あります。太宰府配流のおり、淀川を舟で下った事が関係あるのかもしれません。

「元和元(1615)年5月大阪夏の陣の兵火で社殿が炎上」
の表記に、今は住宅地のこの辺りも、歴史の舞台だった事を想わざるをえません。

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 鳥居をくぐると、拝殿へ伸びる参道及び拝殿手前の手水舎や末社に、石畳が敷かれています。

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 鳥居をくぐった右手にある手水舎(てみずや)。

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 水盤にうがたれた文字。
「延寳(えんぽう)六戊午(つちのえうま)年十二月~」「河州大久保~」「天宮天神御寳」「金龍禪寺」
等の記述が見えます。延宝6年12月は1679年にあたります。

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 参道を進むと、右手に臥牛さんが居ます。管公が祭神の一柱である事を示していると思います。

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 お稲荷さん。臥牛さんの、さらに右手奥に鎮座。

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 臥牛さんの対面に皇太宮。今年は伊勢神宮の式年遷宮に当たります。

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 拝殿。

 私は津嶋部神社をお参りする時、不思議に思っている事が一つあります。よそでは千切って落とした紙片が足下に落ちる様な、そよとした風すら無い時でも、この神域では、微かではあれ、いつも風を感じます。

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 そしてその時、この吊るされた数多の絵馬が、「カラン、コロン」と軽い心地よい音楽を奏でてくれます。

 拝殿で手を合わせている時に感じる風、そしてそれに揺れて奏でられる絵馬の調べに、いつも慰撫される様な気がします。

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 平成25年9月26日の夕陽は、拝殿の真後ろに没していきました。

 残念ながら撮る事ができなかったのですが、1週間前の平成25年9月19日夕刻、拝殿側から鳥居を見た時、この鳥居の真ん中に、蜜柑色に輝く十五夜の満月が乗っていて、その美しさにちょっとした感動を憶えました。

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by manewyemong | 2013-09-27 12:36 | | Comments(0)
 平成24年7月26日の国立民族学博物館で採り上げた、「日本文化」の「日本の祭りと芸能」のコーナーに関する事柄以外のつぶやきを集めました。

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 国立民族学博物館は古今東西の楽器の宝庫でもあります。各地域及び楽器専用のコーナーに陳列されています。画像はギター類。古今のアコースティックだけでなく、左端にはストラトキャスターまでありました。

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 西アジア(ペルシャ、アラブ、トルコ)コーナーの楽器類。左端下段の顔のような楽器はウード。中央のネックが細長いのはサズ。

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 モンゴルのモリンホール。「スーホーの白い馬」でおなじみ。

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 モンゴルの移動式幕舎ゲル。

 5世紀北斉の武人斛律金(こくりつきん)の「勅勒(ちょくろく)の歌」

勅勒の川 陰山の下
天は穹廬に似て 四野を籠蓋す
天は蒼蒼 野は茫茫 
風吹き草低れて 牛羊を見る

の穹廬(きゅうろ)とは、これと似た匈奴の移動式幕舎のことです。

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 インドネシア・バリ島の楽器類。奥に並んだ丸いものは、単に叩くだけでなく軽く擦って鳴らす事もあった記憶があります。手前の鉄琴系は、片方の手で叩き、もう片方の手指で金属片をつまんでミュートしたりして演奏するようです。

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 わら靴コレクション。豪雪の東北や中部地方に混じって大阪のものもありました。大阪府の北の端と南の端は意外に雪深いですから。

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 我々には茶道具、ヘラブナ釣りのウキ、日本刀や甲冑等いったものを、単にその目的の道具としてだけではなく、芸術品として捉える感性があります。アイヌ人のこれらの木製道具類が美しく感じられるのは、そこに訴求しているからだと思います。

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 アイヌ人の漆器。漆掻きや塗りをしない彼等はこれらをヤマト人に求めました。しかしこのコレクションにこれらを集めた彼等の感性が垣間見えます。

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 楽器コーナーのチャルメラ類。「チャルメラ」の語源はポルトガル語です。

飴売りの チャルメラ聴けば うしなひし
おさなき心 ひろへるごとし

石川啄木「一握の砂」より


追記。

 民族学博物館の収蔵品の特徴の一つは、それが衣食住や祭祀等において、実際に使われたものであり、単に作品として作られたものではないという事です。

 私は昭和56(1981)年秋、中学2年生時の遠足で国立民族学博物館を知ったのですが、特におびただしい楽器群にひかれました。既にシンセサイザーに興味を持っていて、各社のカタログを集めたりしていたのですが、国立民族学博物館に収蔵された楽器の一部は、参観者が鳴らす事ができるようになっていて、音を見、構造を聴く事ができました。音を思慮する上で大いに触発されました。

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 楽器は各地域、そして楽器専用のコーナーに、数多陳列されています。

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 西アジアコーナーのウード。人の顔に見えて仕方がないのですが…。

 ハムザ・エルディーンさんの演奏に感動した記憶があります。また、そのハムザ・エルディーンさんと昭和60(1985)年東京日本青年館での「アフリカ難民救済コンサート(アフリカセッション)」で共演した姫神・星吉昭さんは、その後「月あかりの砂のなかに」(アルバム「千年回廊」)「青い花」(アルバム「青い花」)に自身の演奏を収録しています。

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 撥弦楽器カーヌーン。

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 インドネシア・バリ島の魔女ランダと聖獣バロン。

 昭和63(1988)年、東大寺大仏殿前で催された芸能山城組の「獅子幻伝」で、岩手県の鹿踊りや愛媛県宮脇の獅子等とともに舞っていました。

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 インドネシアの打楽器。

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 モンゴルの憤怒尊。

 チベットの立春のお祭りで舞われるタクチャムで使われる仮面とよく似ています。ちなみにタクは憤怒尊、チャムは舞を意味するチベット語です。たしか1980年代半ば、私は大阪・四天王寺境内でその舞いを観ました。

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 岩手県遠野のオシラサマ。

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 岩手県遠野の様々な神像の頭部。

 国立民族学博物館は、幸か不幸かいつ行っても参観者が少なく、落ち着いて観ることができます。また現在入館料が要りません。冷房も効いています。

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by manewyemong | 2012-08-07 14:23 | | Comments(0)
 平成24(2012)年7月26日、大阪府吹田市の万博記念公園内にある国立民族学博物館に行ってきました。

 私が初めて国立民族学博物館に来たのは、昭和56(1981)年秋、中学2年生時の遠足ででした。以来、一時期は自転車で足しげく通いました。

 平成8(1996年)の縄文まほろば博で展示された縄文語の文例集はここの教授によるものですが、その一部が姫神の「神々の詩」の歌詞になりました。

 今回は国立民族学博物館の常設展(地域展示・通文化展示)の、「日本文化」の「日本の祭りと芸能」のコーナーを採り上げたいと思います。

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 青森県弘前のねぷた。

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 しめ縄類。

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 長野県の道祖神。

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 左端の人馬は愛知県のサネモリ人形。

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 鹿児島県大隅(おおすみ)のやごろどん。高さ5m。

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 やごろどんの股間から伸びているこれは、一体何なのでしょうか。

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 お面、仮面類。

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 平成24年6月9日の仰山流笹崎の鹿踊りをつぶやくで触れた、岩手県遠野市青笹の鹿踊り(ししおどり)の装束。

 首から下を被う幕の部分、右横書きで「山牛角六」つまり「六角牛山(ろっこうしさん)」と書かれています。

 3匹の鹿の頭頂部は、向かって左から各々、

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梅、

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松、

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 桜の飾りがあります。

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 尾の部分には、ヤマドリの尾羽が使われています。子供の頃、母方の実家の山中でヤマドリの尾羽がまとまって落ちていたのを見つけたことがあります。

 村野鐵太郎監督の映画「遠野物語」で、日露戦争の戦地へ神を送る儀式の場面があったのですが、白馬の鞍の上にあった幣を小舟に乗せ替えて川に流し終わった後、この青笹の鹿踊りと鬼剣舞(おにけんばい)が踊られました。

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 岩手県平泉の面。おそらく毛越寺の「延年」の若女(左)と老女(右)の面ではないでしょうか。

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 島根県津和野の鷺舞神事の装束。

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 岩手県遠野の春祭りのわら人形(姫神せんせいしょんの「春風祭-遠野物語への旅-」参照)。「春祭り四百四病を送る」と書かれています。

 映画「遠野物語」で、1カット映っていた記憶があります。

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 眼病平癒祈願?の絵馬。

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 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の湯屋の門前町の看板に、似たものがありました。

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 国立民族学博物館の展示物の特徴は、それら自体は作品ではなく、生活や祭祀の道具であった、その多くが実際に使われていた、そして、庶民によって使われていたものであるということです。

 今回は採り上げませんでしたが、衣食住に関する道具や楽器の収蔵品びついて、いつか書いてみたいと思っています。

 国立民族学博物館は、7月21日から8月26日まで入館料が無料です。


平成24年8月7日追記。

 国立民族学博物館の収蔵品をつぶやくに続きます。


国立民族学博物館
http://www.minpaku.ac.jp/

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by manewyemong | 2012-07-26 21:50 | | Comments(0)
 平成24(2012)年6月9日吹田市万博記念公園内国立民族学博物館講堂、10日神戸市JR新長田駅前若松公園鉄人28号広場で開かれた、岩手県大船渡市仰山流笹崎鹿踊保存会の鹿踊りに関する、6月6日から11日にかけてのつぶやきを集めました。


「岩手の伝統芸能鹿踊(ししおどり)6月に神戸で復活」 http://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/0005064616.shtml 「津波被害を受けた大船渡市で鹿踊を受け継ぐ仰山流笹崎鹿踊保存会が6月10日、JR新長田駅前の若松公園鉄人28号広場で、復活の踊りを披露する」

鹿踊りには踊り手と楽手が別のものと踊り手自らが太鼓を打ち鳴らすものとがあるのですが、今回の仰山流笹崎鹿踊は後者です。1988年奈良シルクロード博の東大寺大仏殿前での芸能山城組の演目「獅子幻伝」で踊られた鹿踊りは、私の記憶に間違いが無ければこの仰山流だったと思います。

今回の鹿踊りは6月9日(土)14時〜16時半、国立民族学博物館玄関前広場でも催されます。「研究公演 忘れない絆、絶やさない伝統―震災復興と文化継承を願って」 http://www.minpaku.ac.jp/museum/event/slp/performance120609_10

さきほどつぶやいた東大寺大仏殿前での芸能山城組の「獅子幻伝」について記すと、バリ島のバロン(獅子)や魔女ランダ、二柱の黄金の女神、愛媛県宮脇の獅子、そして岩手県の鹿踊り等が登場し、最後はバリ島の楽器群と鹿踊りの太鼓が鳴る中、総出の群舞という素晴らしい演目でした。

その「獅子幻伝」の中の鹿踊りは、カップルの鹿に嫉妬した2頭の牡鹿が雌鹿を隠し、探しに来た牡鹿を追い払うのですが、やがて仲間が加勢してめでたしめでたしという内容でした。太鼓を打ち鳴らす鹿の踊り手がしゃがんで片足を延ばしたり引っ込めたりする所作、柔軟な体が必要だと思います。

国立民族学博物館は、1981年秋、中学2年の遠足で知りました。展示の多さ、多彩さ、迫力に圧倒され、以後、自転車で通うようになりました。1996年の縄文まほろば博で展示された縄文語の文例集はここの教授によるものですが、その一部が姫神の「神々の詩」の歌詞になりました。

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 先ほど国立民族学博物館講堂で披露された岩手県大船渡市仰山流笹崎鹿踊保存会の鹿踊り。踊り手が太鼓を打つだけでなく唄も入ります。勇壮、華麗、そしてデコラティブジャパンな踊りでした。

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 仰山流笹崎の鹿踊りの復活の場が、地元岩手県大船渡市ではなく民博になったのは、かの地が未だ被災地であるという現実があります。それにしても一切を津波に流されたにも関わらず、関係者の皆さんの復活の為の長足の尽力に頭が下がります。

「岩手・大船渡の鹿踊が復活 大阪・民博で保存会が公演」 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120609/trd12060920540011-n1.htm (MSN産経ニュースより)

1990年代半ば、縄文文化を特集したTV番組で小松左京が、狩猟民族の踊りは足、農耕系は手が踊りのメインだと言っていました。その頃、直立で縦に飛ぶアフリカ人の横で日本の俳優が疲労困憊しているというTVCMがありました。装束や手に槍を持っている姿から狩猟系の民族だと思われます。

小松左京の分類に則って考えてみると、遺伝的文化的に縄文系が色濃く残る東北地方は、跳ね飛ぶ踊りが多い。鹿踊りもそうだと思いました。鹿踊りの縁起を仏教や奈良・春日大社の神事に求める事ができるそうですが、それらはあくまで元からあったものと結びついたと考えるべきかもしれません。

国立民族学博物館の日本文化の祭りと芸能コーナーには、岩手県遠野市青笹の鹿踊りの装束が展示されています。首から下を被う幕の部分にたしか右横書きで「牛角六」つまり「六角牛」と書かれていました。「六角牛」は「ろっこうし」と読みます。山の名です。

村野鐵太郎監督の映画「遠野物語」で、日露戦争の戦地へ神を送る儀式の場面があったのですが、白馬の鞍の上にあった幣を小舟に乗せ替えて川に流し終わった後、この青笹の鹿踊りと鬼剣舞(おにけんばい)が踊られました。

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 大船渡市仰山流笹崎鹿踊りの装束のカシラの部分。条件に合う角は千頭に数頭しかなく、調達の為に近畿や長野にもあたったそうです。またこの角は加工時に不快なにおいを出すそうで、作業は真夏を避け人家から離れた工務店で行ったとの事です。

「東北の鹿踊、感謝の舞 道具贈られた神戸で復活公演」(asahi.com) http://www.asahi.com/national/update/0610/OSK201206100024.html 鉄人28号が、鹿たち、ひいては被災地にエールを送っているように見えてしかたがない。

「岩手の鹿踊:阪神大震災の被災地で舞う」(毎日jp)http://mainichi.jp/select/news/20120611k0000e040078000c.html 鉄人28号が踊りに加わっているように見えます。asahi.comさんといい毎日jpさんといいかっこよく撮ってるなあ。

鹿踊り等の郷土芸能や平泉の黄金の宝物群等が“白河以南”に来るといっても、東京だったり福岡だったりで関西をすっ飛ばすことが多い。関西も東北ももう少し互いに関心を持つべきだと常々思っています。先に挙げたものをより楽しむ為には、かの地の復興が先決であることはいうまでもありません。

 平成24年7月26日の国立民族学博物館に続きます。


追記。

 以上のつぶやきの中で、芸能山城組の「獅子幻伝」の鹿踊りを仰山流ではなかったかとしたのですが、実際に踊りを見てみて、まず踊りの内容が根本的に違うことと、鹿の装束の幕の部分が仰山流は鮮やかな青なのですが、芸能山城組のは深緑か濃紺だったような気がします。

 たしか司馬遼太郎の対談集だったかで読んだ記憶があるのですが、岩手県は文化や地元企業の勢力圏など、かつて南部藩だったか伊達藩だったかが、今日に至るまで微妙に影響している面があるそうです。鹿踊りも南部藩系は踊り手と楽人が別、そして伊達藩は踊り手が太鼓を打ち唄うようです。国立民族学博物館に装束が展示されている遠野市青笹の鹿踊りは前者、大船渡市仰山流笹崎鹿踊りは後者ということになると思います。

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 参考資料「BRUTUS」2009年8月15日号「Re-discover Japan」

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by manewyemong | 2012-06-10 15:55 | | Comments(0)
 平成24(2012)年1月5日夕刻のアテルイの首塚及び片埜神社です。

 アテルイの首塚はこれまで、アテルイの首塚平成20年4月1日のアテルイの首塚平成21年1月3日のアテルイの首塚平成23年4月11日のアテルイの首塚等で採り上げてきました。

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 しめ飾りが置かれた伝阿弖流為母禮之塚の碑。

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 アテルイの首塚に元からあった石。

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 漢文で何か書かれています。「望郷千載両雄眠」に、新都平安京へ連行され斬られたアテルイとモレの心境を思わざるをえません。

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 片埜神社山門。

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 一の鳥居の扁額。

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 町の小さな神社では見る機会が少ない茅の輪(ちのわ)。

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 デコラティブジャパンな本殿。安土桃山時代の建築です。


 戦国時代、この神社も兵火にあったのですが、天下を統一した豊臣秀吉によって修復されたそうです。大坂(大阪)城からみて艮(うしとら)の方角、つまり鬼門にあたるこの神社を、大坂城の鎮護の社としたそうです。片埜神社のあるこの牧野阪辺りは大阪平野の北東角で、ここからは淀川の川岸の細長い土地で京都へと続いています。

 アテルイの首塚のある牧野公園は、かつてこの片埜神社の神域にありました。

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 本殿や拝殿等は次の豊臣秀頼の代に建てられ、今に伝わっています。

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 片埜神社では1月10日のえべっさんもあります。この神社の神職の夫人が書いた「神社若奥日記」には、七五三や初詣、えべっさんにおける神社の舞台裏の大変さが書かれています。

 このえべっさんの絵、その「神社若奥日記」の挿絵にタッチが似ています。挿絵を描かれたのは若奥の夫君、つまり神職の方なのですが、あるいはこのえべっさんもその手によるものなのかもしれません。

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 片埜神社で授かってきました。たしか岩手県で作っているそうです。

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 アテルイのお守り。


片埜神社
http://www.eonet.ne.jp/~katanojinja/

「神社若奥日記・鳥居をくぐれば別世界」(詳伝社黄金文庫)
http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=439631339X

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by manewyemong | 2012-01-06 14:16 | | Comments(0)
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 今朝、佐太天神へお参りに行ったついでに、すぐ近くの仁和寺氏神社(にわじうじかみしゃ)にも足を伸ばしました。

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 「仁和寺庄(にわじのしょう)の古跡」

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 「御伽草子」の鉢かつぎ姫が持っています。寝屋川市ではよく見かけます。

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 鳥居の扁額。近くの佐太天神同様、菅原道真公が祀られていることを示しています。

 案内板には、寛永10(1633)年までは白山権現社だったとあります。

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 手水舎。「宝暦九歳〜」の文字が見えます。

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 大都市の住宅地の中とは思えない木々の表情。

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 拝殿。

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 臥牛(がぎゅう)さん。

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 拝殿前から鳥居の方向を見返してみました。

 どうも最近、NHK「ブラタモリ」の影響か、新幹線だの飛行機だのに乗って出かけていく所よりも、通勤定期や自転車、徒歩で行ける範囲、言い換えれば、自分の住む、働く街に対する関心が湧いて来ています。

 壮麗な城郭や神社仏閣だけではなく、我々の街や村も歴史の舞台である事に変わりはないわけですから…。

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by manewyemong | 2011-12-09 16:37 | | Comments(0)
 「蘇る光芒 市浦村、浪漫街道 平成六年・市浦村勢要覧」をご紹介します。

 青森県津軽半島の北に、点のような狭い河口で日本海に接する、十三湖(じゅうさんこ)という汽水湖があります。青森県北津軽郡市浦村(しうらむら)は、その畔にあった村です。

 あった、というのは、平成17(2005)年、五所川原市(ごしょがわらし)及び金木町(かなぎまち)とともに、五所川原市となったからです。五所川原市の飛び地という、いびつな姿での合併です。

 この十三湖の畔には、かつて十三湊(とさみなと)という国際貿易港がありました。前九年の役で滅ぼされた安倍貞任(あべのさだとう)の遺児、高星丸(たかあきまる)を始祖とする安東一族が仕切ったとされています。中世に至るまで殷賑を極めたのですが、伝説では室町時代初頭、興国元(1340)年、津波よって滅び去ったといわれています。

 このブログでは以前、十三湊の勃興と衰亡と題して、ここに湊が作られた理由から滅亡に至る顛末まで、アカデミズムとは無縁の私の珍説を交えて書いた事があります。

 十三(とさ)の語源は、アイヌ語の“トーサム(湖畔)”から来たという話を、地元で聞きました。そういえば、安倍家が先祖としたアビヒコ/ナガスネヒコ兄弟が居た生駒山(いこまやま)の麓、東大阪市の石切神社(石切神社参道で見たおめでたいもの等…参照)のいしきりとは、アイヌ語のイシ・キリ(長い足)に由来するともいわれています。

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 市浦村は、その十三湊の故地にありました。「蘇る光芒 市浦村、浪漫街道 平成六年・市浦村勢要覧」は、市浦村が観光立村を標榜して10年になる平成6(1994)年に発行されました。

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 日本海へ没する夕陽。

 平成6年夏、この海岸で見る夜中の海は、大都市の夜景が無い故に墨汁のように真っ暗なのかと思いきや、実際はイカ釣り漁船のライトが煌煌と照らされていました。それでも都市生活者の私には、棹を差せば本当にいくつか落ちてきそうに思える星空でした。

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 観光立村のキーワードの一つを「歴史」に据えている為か、特産物の紹介よりも歴史的な事柄や遺構等に関する記述に重きを置いている感があり、それが地方自治体の刊行物にありがちな官製広告臭の無い、観る、あるいは読み物としての面白味を持った冊子になっています。

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 民謡「十三(とさ)の砂山」と十三湖畔の空撮画像。

 歌詞の「西の弁財衆」とは、京、大坂(大阪)あたりから来た船頭を指すそうです。哀調を帯びた、しかし、かつて日本海側が表日本だった時代の、十三湊の殷賑と交わりの広大さを今に伝える、唄と踊り。

 ちなみに姫神せんせいしょんには「十三の砂山」、後の姫神にはその変奏曲「十三の砂山-雁供養-」という同名異曲があります。

 この十三湖畔の画像は上が南、下が北です。十三湊の勃興と衰亡で触れた、十三湖の環境がよく分かります。アカデミズムとは無縁の珍説ながら、私は十三湊滅亡の原因を上流からの土砂の流入としたのですが、画像にあるとおり、十三湊が栄えた中世にあった湖からの日本海への通路は完全に塞がって、砂浜となっています。

 湖から日本海への出口近くに立派な橋がかかっていて、そのたもとに“和歌山”さんという屋号の宿泊施設兼飲食店があったのですが、そこでいただいた名物しじみラーメン、まことに美味でした。

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 モデルさん達の衣装は、大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」の撮影で、実際に使用された物だそうです。

 「炎立つ」の舞台、前九年の役は平安時代なのですが、奥羽の人々のまとっているものは、貴婦人であれ、武人であれ、なぜか遅れた奈良時代風でした。当ブログはデコラティブジャパン感の淵源を東北地方としているのですが、実際の彼の地の装束は、京に負けないトップモード、甲冑もデザイン、色彩とも目に眩いゴージャスな物ではなかったでしょうか。

 私が最後に市浦村・十三湖畔に立った平成12(2000)年夏から、既に11年が経っています。未だ彼の地の人と年始の挨拶状を交わすのですが、それでも、五所川原市との合併、そして直接的な被災は無かったのかもしれませんが、3月11日の大震災以後の彼の地がどうなっているのかを知りません。

 今、こうして「蘇る光芒 市浦村、浪漫街道 平成六年・市浦村勢要覧」を読み返すに及んで、無性に津軽を旅したくなってきました。五所川原市、というより彼の地の人々の本籍地である青森県北津軽郡市浦村を…。

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by manewyemong | 2011-11-23 18:15 | | Comments(0)
 私が子供の頃からお参りに来ていた佐太天神宮(さたてんじんぐう)の、平成23年11月17日の朝です。

 佐太天神宮は大阪府守口市佐太中町7丁目にあります。そばを国道1号線が走り、そして淀川が流れています。地元では佐太天神と呼ばれる事が多く、私もそう言ってきました。

 このあたりは平安時代、菅原道真(すがわらのみちざね)の領地で、道真が太宰府への配流で淀川を舟で下って来たおり、ここに留って赦免の沙汰を待った事から佐太と呼ばれるようになった、という話を聞いた事があります。その後、道真の赦免は無く、太宰府で空しく最後を迎えた後、怨霊となり、そして学問の神様として信仰されるようになった顛末はご存知のとおりです。

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 国道1号線に面した一の鳥居。「佐太天神宮」の額が掲げられています。

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 この鳥居から拝殿まで、一丁半だそうです。

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 一の鳥居から二の鳥居、山門、そして拝殿へと続く参道。

 両脇の常夜灯、夜の灯火が本当に幻想的です。たしかこの夏は電力不足で灯されなかったのですが、今は灯されています。

 背後の国道1号線を渡り、淀川の堤防上からここを眺めると、この灯りの続く向こうに月が上がっていたりします。その度、私の脳裏で姫神の「砂山・十三夜」のあのバイオリンのフレーズが聴こえてきます。堤防上からこの神域と併せて十三夜の月を眺める事が、この時期の私の楽しみです。今年はかないませんでしたが…。

 私が子供の頃は向かって右手にある駐車場も森だったので、今以上に鬱蒼としていました。都会の真ん中なのに、田舎に来たような気分になれます。

 参道の途中、愛宕社、そして、

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 お稲荷さんと、二柱の末社があります。

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 お稲荷さんの鳥居には「天保十三年~」の文字がうがたれています。

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 山門。

 山門をくぐると、

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 左手に手水舎(てみずや)。

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 江戸期の豪商、淀屋寄進の石井筒。

 撮影し忘れたのですが、この手水屋の向こうに、文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の「佐太村の段」に登場する、白太夫(しろたゆう)を祀った摂社があります。

 神社をお参りするおり、手水を使わせていただく度に思うのですが、柄杓(ひしゃく)ひとすくいのお水で、なんであんなにさっぱりするのでしょうね。

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 拝殿。

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 佐太天神宮に伝わる「天神縁起絵巻(てんじんえんぎえまき)」の、おそらくレプリカと思われる絵巻が、広げられて額に入った形で拝殿に飾られています。「天神縁起絵巻」が収められた箱には、室町時代の「文安三年」(1446年)と書かれているそうです。

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 「佐太天神宮 紙本著色天神縁起絵巻」図録。社務所で1,600円で頒布されています。

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 拝殿裏。

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 本殿裏。

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 天神さんらしく、神域には至る所に梅鉢紋があります。

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 佐太戎社。まず、拝殿前でお参りした後、裏へまわり、木槌を打って拝するのが正式なお参りの作法です。

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 えべっさん。炎天下も雨の日も雪の日もまことにご機嫌麗しく、恐悦至極に存じ奉りまする。

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 臥牛(がぎゅう)さん。菅原道真には牛にまつわるエピソードが数多あり、管公を祭神とする天満宮では必ずその使者たる臥牛さんがいるそうです。片埜神社の臥牛さん(平成20年4月1日のアテルイの首塚参照)同様、鞍に梅鉢紋が描かれています。

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 鼻紋まで作り込まれています。

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 脇門。

 写真を撮り忘れたのですが、ここから外へ出ると、

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 来迎寺(らいこうじ)があります。このお寺に伝わる幽霊の足跡とその物語が、TBS系アニメ「まんが日本昔話」になった事があります。

 私が子供の頃、相撲の佐渡ヶ嶽部屋(さどがたけべや)の大阪での宿舎になっていて、春場所のおり、町でよく力士達を見ました。朝稽古を見学させていただいた事があり、琴若という力士の稽古姿に目を見張った記憶があります。

 全国的に知られた古刹や城郭、史跡等を訪ねるのも良いのですが、ふと自分の生活圏にあるものに改めて触れてみたくなりました。今後、身近な所での折々の祭事等、採り上げる事ができればと思っています。


おまけ。

 今回は居なかったのですが、いつも佐太天神をお参りするおり、神域で見かける猫殿。私の姿を見ると近くまで寄って来るのですが、

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 なぜか、

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 目を合わせてくれません。平成22(2010)年4月撮影。

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by manewyemong | 2011-11-18 12:28 | | Comments(0)
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 毎年十三夜、私は姫神の「月のあかりはしみわたり」(アルバム「北天幻想」より)「砂山・十三夜」(アルバム「風の伝説」より)を聴きながら、文治5(1189)年の十三夜に詠まれた、ある歌の事を思い出します。

 以下、「月のあかりはしみわたり」からの引用です。


文治5年7月から9月にかけて源頼朝が起こした奥州征伐によって、奥州藤原氏は滅びました。

 当時、平泉にあった無量光院の助公なる僧は、四代泰衡のあまりにも無惨な死の報に接して、こんな歌を詠みました。

 昔にも あらず成る夜の しるしには 今夜の月も 曇りぬるかな

 中尊寺の月見坂で詠んだそうです。

 この僧が泰衡の悲報を知ったのは同年9月13日(旧暦)。その日は明月が多い事で知られる十三夜でしたが、月には雲が掛かってよく見えなかったそうです。「月も曇りぬ」とは泰衡の死の意でしょう。

 また、仏教において明月は悟りの象徴だそうです。この僧は歌の中で自らの内なる明月にも雲を掛ける事で、聖職者としてではなく一人の奥州人として、主(あるじ)の非業の死を悼んだのかもしれません。

 この僧は奥州征伐の翌年、謀反に加担した容疑で鎌倉へ送られ、梶原景時の取り調べを受けるのですが、その折、容疑を否認しつつもこの歌を示し、滅ぼされた奥州藤原氏への思慕を隠そうとはしませんでした。梶原景時も、そしてこの事を聞いた源頼朝も感じ入り、この僧をとがめず奥州へ帰したそうです。
 

 平成23(2011)年10月9日、今宵はその822年後の十三夜です。

 文治5年の十三夜とは違い、月に雲はかかっていませんが、今年、未曾有の災厄が見舞った彼の地の人々の心を、この月の光が多少なりとも慰撫してくれる事を祈ります。

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by manewyemong | 2011-10-09 21:18 | | Comments(0)