カテゴリ:場( 37 )

 平成20年正月のアテルイの首塚等で触れたアテルイの首塚のある牧野公園は枚方市内の桜の名所であり、今の時期は休日になると花見客で一杯になります。しかしながら今日は平日であること、花冷えであること、私が好きな曇天下の桜を見ることができる日和であること、そして休出の代休が取れたこともあり、自転車に乗ってやって来ました。

a0060052_13383775.jpg
 
 昨年3月アテルイの首塚に建立された碑。

a0060052_13403464.jpg
 
 先客がいました。

a0060052_13421452.jpg
 
 猫にとっても私にとってもアテルイの首塚のランドマークはやはりこの石のようです。

a0060052_13433617.jpg
 
 アテルイとモレの怨念を多少なりとも慰撫する存在があるとすれば、この公園で遊ぶ子供達と雪月花かもしれません。

a0060052_13444485.jpg
 
 片埜神社神域の臥牛(がぎゅう)さん。何だか今にももぐもぐと反芻(はんすう)しそうです。

a0060052_13452747.jpg
 
 今日は“おついたち”なのでお稲荷さんの社の扉が開放されています。お稲荷さんのキツネのルーツは古代エジプトの絵文字の犬のような気がします。

a0060052_13461863.jpg
 
 サイクリングで来た時いつもそうするようにベンチに腰掛けてお茶を飲みながら、今回はせんせいしょんのアルバム「桃源郷」と明日4月2日からレコード店で発売される姫神の新譜「天∴日高見乃國(あま∴ひたかみのくに)」の収録曲の一部を聴きました。私はアルバム「天∴日高見乃國」を、既に昨年の神嘗祭奉祝演奏会のおり、手に入れています。

 1200年余前、身を賭して己が郷土を守り抜こうとしたアテルイとモレの首塚の前で、現代の彼(か)の地に暮らす人達が作った音楽に耳を傾けながら、一陣の風が吹く度に花の散っていく様を眺めている…。ふと、こんな俗っぽい五七五が一句できました。

 故地の音や 御首の塚 花吹雪く 
(こちのねや みしるしのつか はなふぶく)

 実際に牧野公園に本格的な花吹雪が舞うまでには、まだ多少時間があるようです。

 平成21年1月3日のアテルイの首塚へ続きます。

[PR]
by manewyemong | 2008-04-01 13:49 | | Comments(0)
 あけましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいいたします。

 今朝、アテルイの首塚(アテルイの首塚伝阿弖流為母禮之塚碑除幕式碑建つ参照)と片埜神社に初詣に行きました。

a0060052_1932162.jpg
 
 平成20年1月2日の朝陽を浴びた伝阿弖流為母禮之塚碑。

a0060052_1965875.jpg
 
 この碑に揮毫した清水寺の森貫主が書いた昨年の“今年の漢字”は「偽」でした。偽りの講和で新都平安京へ連れて来られ、この地で斬られたアテルイやモレが、後世の日本人のこのザマに胸を痛めるのかせせら笑うのか、私には判りません。

a0060052_18462451.jpg
 
 樹木の陰に北面する亀の頭のような石。

a0060052_1911146.jpg
 
 花瓶が倒れていたので立て直しました。アテルイファン?の皆さんが考えるほど、地元ではこの塚の縁起は知られていないようです。

 この冬、まだ降雪はありません。アテルイとモレに一冬に一度だけでも彼等の生まれ故郷のような雪景色を見せてやりたい気がします。

 私はアテルイとモレに、1月23日発売のせんせいしょんの新譜「桃源郷」と、2月4日発売の姫神の新譜「天∴日高見乃國」のヒットを祈願しました。桜の咲く時期になったら、サイクリングで来たおりにでも「桃源郷」と「天∴日高見乃國」の一部だけでも、アテルイとモレに聴いてもらおうかなと思っています。至極小さな、ささやくような音でですけど…。

a0060052_1912451.jpg
 
 片埜神社拝殿。茅の輪(ちのわ)が設けられています。ちなみにこの神社で授けられる初弊(はつへい)という金色の幣帛(へいはく)は岩手県で作られているそうです。

a0060052_18493053.jpg
 
 片埜神社稲荷社の鳥居。

a0060052_18503678.jpg
 
 この稲荷社は昨年改修されたそうです。

a0060052_19155687.jpg
 
 えべっさん。大阪名物“十日戎(とおかえびす)”の告知です。

a0060052_18524438.jpg


a0060052_18532795.jpg
 
 片埜神社で授かったアテルイのお守り。このアテルイの顔、私は私に似ているような気がするのですが…。

 平成20年4月1日のアテルイの首塚へ続きます。

[PR]
by manewyemong | 2008-01-02 19:19 | | Comments(0)
a0060052_1852634.jpg


 これが完成した“伝阿弖流為母禮之塚”の碑(いしぶみ)です。

a0060052_18533289.jpg


 京都清水寺の森清範貫主の堂々たる筆跡です。

a0060052_18543845.jpg


 アテルイの首塚の北面に昔からあった亀の頭のような石の前には階段が作られていました。

a0060052_18552211.jpg


 お花が供えられていました。

 私の中では、どうも見慣れたこの石の方が今後もアテルイの首塚のランドマークであり続けると思います。

 私がアテルイの首塚に着いた16時過ぎには除幕式や奉告祭は終わっていたのですが、公園の横にある公民館らしき建物の中からアテルイを讃えているらしいど演歌?が聞こえてきました。またその建物からは時折、毛越寺や小岩井農場等といった岩手県下での姫神のコンサートや、東京都民だった頃に上野駅で耳にしたおぼえのある訛りを帯びたスピーチも聞こえてきました。

a0060052_18555533.jpg


 碑は塚の東面にあります。ちなみにこの場所、ついこの前までは牧野公園の清掃のおり、集積したゴミが一時的に置かれていました。

a0060052_18562846.jpg


 碑の裏面にはアテルイとモレを顕彰する文が記されていました。関西外国語大学の瀬川芳則教授によるものだそうです。

 この写真を撮った時、私のしていることを見ていた女子児童の口から「なんで、いまごろになってつくったん?」という言葉が聞こえました。何だかアテルイの言葉を聞いたような気がしました。碑が建ってもなお、アテルイやモレの亡魂はこれからも怨霊であり続けるのかもしれません。しかしその一方で、この公園で遊ぶヤマトの子供達の守り神でもあり続けるのかもしれません。

 平成20年正月のアテルイの首塚へ続きます。
[PR]
by manewyemong | 2007-03-04 19:05 | | Comments(2)
 大阪府枚方市の牧野公園内にあるアテルイの首塚に碑(いしぶみ)が建立され、その除幕式が来る3月4日13時から執り行われます。

 碑文の表は清水の舞台がある京都清水寺の森清範貫主の筆によるものです。清水寺はアテルイと合戦した坂上田村麻呂と関係が深く、また、境内にアテルイとモレの顕彰碑があります。森貫主は毎年12月12日に発表される“今年の漢字”を揮毫される方です。

片埜神社
http://www12.ocn.ne.jp/~katano/
牧野公園の横にある神社。公園はかつては同神社の神域でした。サイト内にアテルイの首塚と伝阿弖流為母禮之塚碑に関する記事があります。

 以下の画像は今年1月4日、片埜神社に初詣に行ったおりに撮影しました。まだ碑建立の工事は始まっていませんでした。

a0060052_2045747.jpg
 
碑建つへ続きます。


[PR]
by manewyemong | 2007-02-28 20:46 | | Comments(0)
 NHK「ぐるっと海道3万キロ」で視覚的に最も印象に残ったのは、昭和60(1985)年5月20日に放映された「横断!有明海〜カヌーで挑戦・泥の海〜」の終盤、“おしまさん”という七福神の弁財天に似た小さな神像が満ち潮に没していく映像でした。

 おしまさんは、有明海の北東、佐賀県肥前七浦にある沖ノ島という、干潮時にだけ姿を現す岩礁に安置されています。地元の伝説によると、ある干ばつのおり、雨を乞うために、シマという娘が海に身を投げました。そのおかげで雨が降り、田は潤い、海は豊漁となったのだそうです。シマの遺体が流れ着いた沖ノ島に、人々はおしまさん像を祀りました。

 番組が取材したのは、荒波にさらわれて海底に沈んでいたおしまさん像を、元の場所に安置する工事をしている所でした。これまでも幾度となく流されてしまい、その都度拾われて据え付け直されてきました。工事が終わって作業関係者がいなくなり、一人微笑むおしまさん像を、カメラは撮り続けていました。

 陽がすっかり傾いた頃、満ち潮が金色の残照を受けたおしまさんの、胸、肩、首、顔を浸していきました。このシーンに流れた姫神による番組のオリジナルエンディング曲は、他のどの回のラストシーンよりも映像と合っていました。

  「その場その場に流れているリズムがある」と、姫神・星吉昭さんはエッセイ「北の風、あおあおと」(岩手日報社)の「リズム」の章で記されています。このエンディング曲は、あるいはおしまさんが海中に消えていく光景のリズムを元に作られたのかなとさえ思えました。

 頭の上まですっかり有明海の水中に没したおしまさんの微笑みのアップを映しながら、エンディング曲の高鳴りとともに「横断!有明海〜」は終わりました。

 有明海は日本で最も干満の差が激しく、春の大潮の際、海面の上下は6mに及ぶそうです。その特殊な環境がもたらす豊穣な海と人との関わりを、時に陽の光と潮風を受けながら、またある時は潮(うしお)の中に洗われながら、おしまさんは沖ノ島に座って見つめ続けて来ました。

 「横断!有明海〜」放映から12年後の平成9(1997)年4月、有明海の西部にある諌早(いさはや)湾干拓のための潮止め工事が行われました。諌早湾干拓事業に関して、環境破壊(干潟の持つ自然の水質浄化能力が喪失される、水産資源の枯渇等)や、文化(この海の特殊な環境に順応して生まれた独特の漁法や伝統行事)の衰退、経済上の費用対効果(5000億円にのぼる支出に合うだけの経済効果)が期待できない、といった問題点が指摘されてきました。

 環境面に関して既に様々な影響が報じられています。酪農/栽培農家を数百戸入植させる計画に関しても、ただでさえ農業就労者が減っている昨今、事業規模に見合うだけの入植者を確保するのは難しいのではないでしょうか。

 それから、大阪湾・泉州沖を埋め立てて造られた関西国際空港は、予想を遥かに超えるペースで地盤沈下が進んでいるのですが、同じ事が干潟の干拓地でも起きる可能性があるのではないでしょうか。あくまで素人考えですが、損益計算を考えた場合、本当にこの事業が“益”を生み出すのか疑問です。

 青森県の三内丸山遺跡や十三湖畔での姫神の公演に行くために乗った東北本線の特急「はつかり」(現在、東北新幹線八戸駅延伸にともなって廃止)が、八戸駅を過ぎて左へ大きくカーブするあたりから、沿線に休耕(否、死耕というべきか)農地が目につきました。

 素人目には、干潟を干拓して農地を増やすより、こういった休耕農地を蘇生させる方が、農村の過疎化の歯止めや里山の保全等、干拓事業より少ない投資で様々な効果を生み出すと思うのですが、どうも官のえらいさん達の考えることには、費用対効果という考え方そのものが無いようです。

 平成9年4月、潮止め工事の象徴ともいうべき、諌早湾奥を完全に締め切るあの映像をニュースで見た時、私は「横断!有明海〜カヌーで挑戦・泥の海〜」のラストシーンのおしまさんの姿が脳裏に浮かびました。

 はたしておしまさんは、今もあの時と同じ微笑みをカメラに向けるのでしょうか。
[PR]
by manewyemong | 2006-05-12 18:55 | | Comments(0)
 私がアテルイ(大墓公阿弖流為:おおつかのきみアテルイ)の名を見たのは姫神せんせいしょんのアルバム「遠野」の、詩人の斎藤彰吾さんによるライナーノーツにある蝦夷(えみし)に関する記述の中です。

この総首領がアテルイで、一関以北の部族国家を頑強に守っていた

延暦21(802)年、兵500を連れて征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の軍門に降伏する

などとありました。その後、いくつかの典籍からこのアテルイなる人物が大阪府枚方市のどこかで斬られ、墓や刑死にまつわる場所があることを知りました。しかしながらそれがどこにあるのかまでは知る機会がありませんでした。

 4年前、私は自転車で淀川の堤防や河川敷を上流方向へ走っていました。やがて淀川と穂谷川の合流地点までやってくると、それより上流は堤防上の道が舗装されてなく、また河川敷はゴルフ場になっていて降りていくことは出来ませんでした。そこで近くの京阪電車牧野駅界隈の商店街で飲み物を買い、遅咲きの桜が満開の公園のベンチに腰掛けて休憩を取りました。

 目の前に、盛り土が為されていて枝葉を大きく広げた樹木が植わり、その根元にお地蔵さんとも碑ともいえない亀の頭のような形の石が置かれているのを見つけました。公園内のどこにもそのいわれを語るものはありませんでした。

 その後もその公園をサイクリングの折り返し点にして、何度となくそのベンチで休憩をとったのですが、今年2月、片埜(かたの)神社の禰宜(ねぎ)の夫人が書かれた「神社若奥日記」という本を読んだおり、その中に私が休憩の度に気になっていた盛り土とその上の石の写真が載っていました。それが「アテルイの首塚」でした。私は何も知らずにアテルイゆかりの場所を何十回となく訪れていたのでした。

 そしてその塚のある牧野公園そのものが元々は隣にある片埜神社の神域だったこと、以前、片埜神社の禰宜が斎主をつとめて慰霊祭が行われたこと、作家の高橋克彦さんがアテルイを主人公に小説「火怨」を出したこと等を知りました。

 私は小説や漫画のアテルイ、その副将モレ(盤具公母礼:いわぐのきみモレ)、田村麻呂像を、そのまま受け入れる気にはなれませんし、史書に記されたアテルイの事績はあまりにも少ない(10分の1の兵力で朝廷軍を10年に渡って翻弄し続けたこと等)ので、彼等の人物像について記すことは出来ません。しかしながら、一つだけ私見を披露したいと思います。

 延暦21年、兵500を連れて降伏したアテルイは、遷都直後の京都へ連行されました。田村麻呂は「此の度は願いに任せて返し入れ、其の賊類を招かん(彼等を希望通り帰らせれば、他の抵抗勢力の帰属を促せるだろう)」と朝廷に意見するのですが、朝廷の結論は「野生獣心、反覆定め无(がた)し。縦(たと)ひ申請に依って奥地に放置せば、所謂虎を養いて患を遺すものなり」でした。アテルイとモレは処刑されました。

 私はアテルイ刑死の真のターゲットは田村麻呂ではないかと考えています。アテルイが死んだせいで奥州の蝦夷(えみし)は交渉を持つこと無く抵抗を続けました。田村麻呂は新都に落ち着くこと無く、再び奥州へ発つこととなりました。和歌や蹴鞠に遊ぶ貴族という名のニート達にとって“出来る男”田村麻呂は、目障りなだけだったのかもしれません。

 また、結局アテルイを守れなかった田村麻呂に対して、後ろから付き従う麾下(きか)の将兵達から、これまでの征夷大将軍に対するお追従(ついしょう)とは別の目線を浴び続けることになったのではないでしょうか。「あの人はアテルイを守れなかったのだ…」「あの人のせいで戦地へ赴ことになったのだ…」という目線を。

 少ない戦力で果敢に戦い続けたアテルイは、逆に重く用いれば、同じく“出来る男”として出世したかもしれません。奈良時代、孝謙・称徳女帝の時代に重用された蝦夷の道嶋嶋足(みちしまのしまたり)という先例もあります。時代も国も違いますがモンゴルのチンギス・ハーンは優秀な敵を重用することで大帝国を築きました。戦略も人事も平安京はあまりにも短絡的だったと思います。私には奥州へ向かう田村麻呂を見送る貴族達が、束帯の袖で口許を隠しながら「ホホホ…」と嗤う姿が目に浮かびます。

 本当のところ、アテルイの首塚の真贋は分かりません。しかし、真実ではなくとも事実ではある、と言っていいかもしれません。アテルイを敬愛する人々がそこを訪れることで彼の亡魂に触れることができるのであれば、そこはまぎれも無くアテルイの眠る所だと考えられるからです。

 碑建つ平成20年正月のアテルイの首塚平成20年4月1日のアテルイの首塚平成21年1月3日のアテルイの首塚平成23年4月11日のアテルイの首塚平成24年1月5日のアテルイの首塚へ続きます。


「神社若奥日記・鳥居をくぐれば別世界」(祥伝社黄金文庫)
http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=439631339X

[PR]
by manewyemong | 2006-05-07 13:13 | | Comments(0)
 姫神のアルバム 「東日流(つがる)」に関する記事の前に、このアルバムの題材、中世十三湊(とさみなと)について考えてみました。アカデミズムとは無縁の私の珍説にすぎません。

 そもそもなぜ津軽半島の北の端に、かつて博多と並ぶような国際港があったのでしょうか。私なりに資料を漁って類推してみました。

 現代なら港なり空港なりの立地条件は、近くに大消費地があることが第一義だと思います。もちろん、東京から遠く離れた無農薬野菜の畑の中に新東京国際空港があるという例外はありますが…。

 しかし、船が鋼の船体と自由に動きまわれるエンジンを持たなかった時代、港が開かれる条件は、人間サイドの都合より自然環境に依るところが大でした。有力な政治家の先生のお力があれば、どこにでも技術とカネの力にものをいわせて駅や港や空港をつくる現代とは、勝手が違ったと思われます。

 当時と現代とでは良港の条件そのものもまるで違います。まず、現代の鋼製の汽船にとっての良港は、波が静かで港内の海底が深い入り江であることが挙げられます。鋼製の汽船は吃水が深く、また動力のスクリューは船尾の底付近にあります。港内の海底が浅いと船体が損傷します。

 十三湊が殷賑を極めた時代、船は木造であり、そして動力源はエンジンではなく、風まかせ(港内や無風時は水夫が櫓を漕いだ)でした。波の静かな入り江が良港であることには変わりありません。しかし、波の静かな入り江には木造船にとって恐るべき生物がいます。フナクイムシです。木造船に取り付いてシロアリのように喰い荒らします。

 木造船は長く停泊する場合、フナクイムシや水の侵食そのものから船体を守る為に、船体を陸に揚げておきます。カタパルトや注排水できるドックが無い時代、船を陸揚げするに当たっては、水深が浅くやわらかい砂地の海底から続く砂浜の方が容易です。

 それから、十三湖(じゅうさんこ)は広大であるにも関わらず、外海(そとうみ)との出入り口が、アルバム「東日流」に付属している小冊子の8ページ目にある写真のこの地点しかありません。海が荒れても港内への影響がある程度緩衝されるという環境です。また、この写真の右半分はいきなり日本海の外海です。外海が近いことも、十三湊が開かれたことの理由の一つでしょう。

 かつて日本は世界的な黄金の産出国でしたが、後世のバブル期の日本と違い、国内のゴールドのマーケットの規模はしれていたでしょう。黄金はあくまで装飾品の材料でした。日本国内より大陸との貿易の決済に黄金をあてた方が、粗利率は高かったでしょう。十三湊や平泉の繁栄は奥州産の黄金や太刀等と大陸の商品を交換することで築かれていきました。

 後世に至るまで、ともすると日本の黄金は海外に流れがちでした。それは江戸時代、鎖国政策がとられてからもそうでした。江戸幕府老中新井白石は、長崎出島でのオランダとの貿易のおり、決済に黄金を用いず海産物などで済ますことを推し進めました。

 次に、なぜ十三湊が衰亡したのかを調べ、考えてみました。木造船の良港の条件の一つに、水深の浅い、軟らかい砂地の海底であることは既に挙げました。こういった環境は、土砂の流入や流出の影響をもろに受けます。

 輪田泊(わだのとまり:現在の神戸港)は、東や南からの高波の度、港湾の土砂が流出していきました。そこで平清盛(たいらのきよもり)は、それを防ぐ為に経島(きょうがしま)という人工島を造らせました。輪田泊は、埋め立て工事によって問題を切り抜けられたのですが、十三湊は勝手が違いました。十三湊が欲した技術は、埋め立てではなく、大掛かりな浚渫(しゅんせつ)でした。そして、当時それは望むべくもない技術だったと思われます。

 伝説では十三湊は、室町時代初頭、興国元(1340)年に突如起こった大津波に飲み込まれ、瞬時にして滅び去ったと言われています。しかし、どうやら実際は、十三湖への土砂の流入が十三湊の港湾施設を使い物にならなくしてしまったようです。一夜にしてではなく、少しずつ、大雨や河川の氾濫の度に、砂が十三湖の出入り口を埋めていったと思われます。港湾を埋めていく砂の量に反比例して、十三湊の乗降客や貨物の取り扱い量は減っていったと思います。派手な滅亡劇ではなく、少しずつ衰退していったというのが真実のようです。

 アルバム「東日流」に付属している小冊子の8ページ目にある写真をみると、中央の十三湖の出入り口の部分が異様にせまい。そして浚渫と護岸工事が施されているのが視認できます。おそらく十三湖へ注ぎ込む河川が運んだ砂が、ある時期、この出入り口を完全にふさいでしまったのではないでしょうか。

 ちなみに支那の黄河は、干潮時、広大な干潟によって渤海と完全に寸断されてしまいます。上流からの土砂が河口を埋めてしまっているのです。

 あくまで私の推論ですが、十三湊の施政者や港湾技術者達は、十三湊に、いつか湊としての使命が終わる日が来るのを重々承知していたのではないでしょうか。そして十三湊の施政者は、十三湊の滅亡をソフトランディングさせる形での手を打ったのではないでしょうか。港湾関係者を少しづつ内外の他の湊町へ移したり、職業の転業を計って、“The day after”に備えたと私は考えています。

 彼等の歴史が忽然と途切れて見えるのは、ソフトランディングのプロセスを、第3者や後世の耳目にさらしたくない何らかの理由があったのかもしれません。そして、考え得る限りの対策を講じた彼等は、その日を、至極恬淡な心持ちで迎えたと思います。

 彼等が十三湖を後にしてどこへ行ったか定かではありません。北海道へ拠点を移したともいわれていますが…。彼等のその後の運命と、縄文中期に縄文時代で最も利便性に富んだ施設群を放棄した三内丸山の縄文人、そして、小松左京さんが書いた小説「日本沈没」の中の、国土を海中に失い、世界へ散って行った日本人…。私にはこの3者の運命がだぶります。彼等の“The day after”が気になって仕方がありません。

 一所懸命(今日では“一生”懸命という新造語の方が多く用いられる)という言葉に代表される鎌倉武士以来の日本人の土地への執着心を、縄文人同様、十三湊の人々も持っていなかったとは考えられないでしょうか。

 20世紀末の日本のバブル経済は、土地を担保にした紙切れが乱れ飛ぶ事で膨張していきました。そして、バブル崩壊の直接の引き金は、土地取り引きの総量規制でした。監督官庁サイドが無理な急ブレーキをかけたわけです。十三湊の施政者が為したようなソフトランディングさせるセンスは、20世紀末の日本の施政者には無かったようです。

 あの土地がらみの狂奔を、縄文人やかつての十三湊の人々はどう見るのでしょうか。自分達を見舞った運命をあるがまま受け入れ、最善の道を探す…。こだわりや執着心に足をすくわれている現代日本人より、彼等の方が自己を見舞った運命に対する謙虚さ、自己責任意識、実行力、フットワークの軽さを持っているように思います。そしてそれらは、今、我々にこそ求められているものではないでしょうか。

 「蘇る光芒 市浦村、浪漫街道 平成六年・市浦村勢要覧」でも、十三湊や十三湖について触れています。


「十三湊遺跡が国史跡に指定される」(「あおもりの文化財」より)
http://www.pref.aomori.jp/culture/tosaminato_sitei/tosaminato_sitei.html
[PR]
by manewyemong | 2006-01-05 09:57 | | Comments(0)