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 平成28(2016)年5月5日、作曲家・シンセサイザー奏者の冨田勲さんが亡くなりました。

 冨田勲さんは、昭和7(1932)年4月22日東京生まれ。慶応大学在学中から作曲活動を始めました。テレビや映画のBGMを書く、所謂劇伴音楽家としてのキャリアが、量及び期間とも大と思われます。

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 ただ、私が冨田勲(とみた・いさお)さんのお名前と成果物をはっきり意識したのは、moog III p、system 55、Roland SYSTEM-700といったシステムシンセサイザー(KYOTO FESTIVAL of MODULAR 2015に行ってきました 参照)等とMTR(マルチトラックレコーダー)を駆使して、一人多重録音という形で制作されたアルバム「ダフニスとクロエ」(作曲:モーリス・ラヴェル)でした。

 その事もあり、私としてはこの記事において、シンセサイザー奏者としての冨田勲さんについて触れたいと思います。

 なお、冨田さんは1980年代初頭、ご自身の職業というか肩書きを、“サウンドパフォーマー”(音の演出家)としていました。古山俊一さんの「シンセサイザーここがポイント」(昭和57:1982年音楽之友社刊)の裏表紙のコメント等で、その表記が見えます。

 昭和54(1979)年のクリスマスに知人宅に行ったおり、そのかなり年上の兄上の部屋で、冨田さんの「ダフニスとクロエ」を聴きました。音に誘われるように勝手に部屋に入ってきた私が神妙に聴いている事に気付いた兄上が、「この鳥のさえずりやらバイオリンやら口笛やら清流の音やら…みんなシンセサイザーっていう楽器から出てるんや。たくさんの音が同時に鳴ってるけど、弾いている人は一人なんや」と説明してくれました。

 これがシンセサイザー奏者としての冨田勲さんの作品、そして、シンセサイザーという楽器や一人多重録音という手法に興味を持った瞬間でした。

 小学6年生だったその冬休みを、私はもっぱら冨田さんやシンセサイザーについて調べる事に費やしました。件の兄上にレコードを借りたり、本屋でシンセ関連の書籍を立ち読みし、そして、生まれて初めて楽器店に出かけてシンセサイザーに触れました。昭和55(1980)年、1980年代の幕開けを、冨田さんやシンセサイザーに対する関心が脳裏に満ちた形で迎えました。

 アルバムライナーノーツでの冨田さんの言葉や実際にシンセに触れてみて、他の楽器と根本的に異なり、この楽器には固有の音が無く、自分で作る事ができる、そして多重録音という方法を使えば、自分一人でバンドやオーケストラを持つ事ができるという事を理解しました。それまで楽器演奏に全く興味がありませんでしたが、自分の楽器はこれしかないと思いました。

 そして、意識してテレビやラジオから流れてくる音楽や効果音を聴いてみると、実はその時点で既にシンセサイザーはかなり使われていました。しかしながら、それらが私の心に響かなかったのは、冨田さんのシンセと異なり、それらの音がシンセ音である事を誇示するような、特性を押し出す、あるいはそれに依拠した感のあるものばかりだったからでした。

 本来“有機的”という言葉に対義語は無かったはずなのですが、シンセ関連の書籍で“無機的”という言葉が使われ始めていました。いつの間にか私の周りにあふれていたシンセサイザーを使った音楽や音は、遺憾ながら無機的でした。

 冨田さんのシンセ演奏には、音色の径時変化の緻密なシナリオ、丁寧な音量のコントロール、擦弦楽器風の音色で弓の返し時のような音の途切れが入れられていて、マニュアル感がありました。また、最初に気づかされたのは東祥高さんや姫神せんせいしょんの吹奏楽器風の音色でしたが、冨田さんのそれにも、息継ぎの間(ま)がありました。シンセには弓の返しも息継ぎも物理的に全く必要ありませんが、冨田さんの脳裏で鳴っている音色は、弓は上げ下げされ、息を吹き込めば今度は吸いたくなるという現象が起きていて、それをシンセに込めたのではないかと思いました。

 平成10(1998)年のある深夜、野村芳太郎監督の映画「しなの川」(昭和48:1973年)のテレビ放映を観ました。冒頭鳴りだしたオーケストラとコーラスの音楽が、なんだか冨田さんのシンセ作品のような雰囲気だったのですが、オープニングスタッフロールに「音楽 冨田勲」と出ました。楽器が変わっても冨田さんの音の特徴は現れるという事を知りました。

 また、私は聴けていないのですが、かつて冨田さんが編曲した「展覧会の絵」(作曲:モデスト・ムソルグスキー)が、後のシンセ版アルバム「展覧会の絵」とそっくりだという話も目にしました。

 minimoog(ミニモーグ、否、この場合、ミニムーグと発した方がいいでしょうね)の音、prophet-5の音…あるはずの無い“シンセサイザーの音”とやらが汎世間的に凝固して、皆で仲良く使いだして今に至っているのですが、冨田さんはアコースティック楽器や人声ですら、音にご自分をにじませる事ができていました。

 そういえば、冨田さんの有名な言葉、
このシンセサイザーはどんな音がするのかという質問は、このバーベキューセットはどんな味がするのかと言っているのと同じ事
は、シンセサイザーの音はその奏者の中にあるはずという考えを、端的に表現していると思います。

 私が冨田さんやシンセに興味を持った頃、デジタルシーケンサーは世に出ていたのですが、それを使った音楽のことごとくが、いかにも打ち込みといったものばかりでした。冨田さんの「ダフニスとクロエ」は、その演奏の多くをデジタルシーケンサーRoland MC-8で行なっていたのですが、手弾き以上の繊細な表現が為されています。デジタルシーケンサーの特性に乗っかった無機的な表現ではなく、脳裏で起こっている事をMC-8に打ち込んだという事だと思います。

 ちなみに1980年代初頭、ご自身をキーボーディストだと思いますか、という問いに対して冨田さんは、
キーボードを鍵盤だけでなくMC-8のテンキーも含めるという事でしたら、私はキーボーディストでしょうね
と答えています。

 それにしても冨田勲さんが、なぜかくもオリジナリティを発露させ続ける事ができたか…もちろん先天的な適性が大だとは思うのですが、それ以外に、冨田さんが昭和7(1932)年生まれ、つまり、所謂昭和ヒトケタであるという事も関わりがあると思います。

 冨田勲さんは、昭和20(1945)年8月15日の終戦を13歳で迎えました。この世代は、あの日を境の世の中の価値観の変化をうまく受け入れられず、その後、種々のセオリーを信じきれないところがあるといいます。

 こうだと決まっていたものが、ある日突然覆(くつがえ)された、という体験は、その後、少なくとも音楽家としての冨田さんに、むしろプラスに働いたのではないでしょうか。

 クラシックはこういう形で演奏されなければならない、オーケストラの各楽器は音場上この位置に配されて聴こえていなければならない、シンセサイザー等電子楽器の音は「ピコピコ」「ブー」「ジュイ〜ン」「トキオ!」でなければならない…明確に定められた形(かた)であれ、世間がいつの間にか作り上げた“なんとなく”なお約束であれ、それらは自分の外での事であって、クラシック音楽をシンセで弾く、シンセに弓の上げ下げをさせる、息継ぎをさせるといった事は、自分がしたいからするのだ、という事なのだと思います。

 私から見て、シンセサイザーの音色で自分の世界を構築できたプロの演奏家のことごとくが日本人なのですが、その幾人かは既に奥津城の人になってしまいました。今、この訃報に接して、作品が残る限り冨田さんが精力的に活動している音楽家である事に変わりはないと思いつつも、シンセサイザーの使われ方に、残念ながら一つの終わりが来たという事を実感せざるをえません。

 子供の頃から今に至るまで何をやっても長続きしない私が、シンセサイザーとだけはこうしてつきあっている事、あげくこんなブログを10年以上書いている事は、原点が冨田勲さんだったからだと思います。

 私が持っている冨田作品の中で最も新しいものは、アルバム「惑星 ULTIMATE EDITION」なのですが、「銀河鉄道の夜」や、私が冨田さん、否、人類がシンセサイザーで演奏した音楽の中で最も美しい作品だと思っている「亡き王女のためのパヴァーヌ」を収めたアルバム「オホーツク幻想」等、冨田さんの近作も手にしたいと思います。

 素晴らしい音楽を聴かせてくれた事に感謝いたします。冨田勲さんのご冥福を祈ります。

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 平成25(2013)年2月9日、クレオ大阪西で催された「追悼 東祥高に捧ぐ 篠笛の響きコンサート」を聴いてきました。この公演に関して1月7日の記事で告知させていただきました。

 公演は2部構成でした。冒頭に東さんの息子さん祥太郎(しょうたろう)さんのご挨拶があり、そして全員で東さんへの黙祷を捧げました。

 第一部は、東祥高さんが遺したシンセサイザーによる伴奏に、井上真美/Azumaユニットの篠笛奏者井上真美(いのうえ・まみ)さんの演奏が乗る形でした。

 舞台下手(客席から見て左側)に井上さんが篠笛とともに立ち、上手(右手側)に東さんが公演で弾いていた2台のワークステーション機Roland XP-50が設置されていました。実際に演奏される事はありませんでしたが、電源コードやステレオコネクションコードまで挿し込まれていました。

 この2台のRoland XP-50は、見た目は何の変哲も無いのですが、中身を別のシンセ3台分に入れ替えられ、それに伴いフロントパネルの操作子群も本来とは全く違う用途になっています。おそらく東さんご本人と改造に携わった方にしか操作できないのではないでしょうか。

 曲の演奏中、舞台上のスクリーンに、霧に煙るかつての奈良県大宇陀町(平成18年、奈良県宇陀市になりました)の山野やかぎろひ(かぎろい)の光景、昭和58(1983)年以前、つまりアナログシンセ時代のニュートンスタジオと作業中の東さんの姿等が投影されました。

 私は前の方の絶好の席に座る事が出来たので、井上さんの篠笛をスピーカーからの音だけでなく、原音を耳にする事が出来ました。篠笛の「ポーッ」「ピュイーッ」だけでなく、うなるような「ブブフフススッ」という効果(たしかグロウル効果という専門用語があります)のニュアンスを、至極繊細に体感できました。

 録音されたものとはいえ、東さんのシンセサイザーパートも音が良く、時に2台のRoland XP-50にスポットライトが当たる事と相まって、何だか東さんが舞台上で弾いているのではないかと、ふと空想してしまいました。

 私が第一部で特に感動したのは、「阿騎野」(井上真美/Azumaユニットのアルバム「花くれなひに」より)です。原曲は東祥高さんが一人多重録音で作ったアルバム「阿騎野」のタイトル曲なのですが、篠笛が一振り加わるだけで、これほど趣きが変わるのかと感動しました。それでいて原曲の持つ壮大さや静謐感、宇陀市でも大宇陀町でもないかつての名、阿騎野に込めた彼の地への讃歌という主題から外れるものになっていないと感じました。

 第二部は、冒頭に東さんとおつきあいの長い朝日放送の方(お名前を失念しました)によるニュートンスタジオ黎明期のお話、その後、井上さんの篠笛、大倉流鼓奏者清水晧祐(しみず・こうすけ)さんの鼓、東さんのシンセの伴奏という形で公演は続きました。

 朝日放送さんから東さんへの最初の依頼は、朝日放送(ラジオ)の“大阪湾をきれいにしようというキャンペーン”のBGMだったそうですが、話に行き違いが生じたのか、作品を依頼した1970年代当時の、今よりも汚れていた大阪湾の情景を描いたものが上がってきたそうです。その後、ディスカッションを重ねてキャンペーンに沿ったものが完成したのはいうまでもありません。

 昭和56(1981)年から同放送局で東さんが「シンセワールド」のDJを担当するのは、あるいはこういったご縁からだったのかもしれません。ちなみに朝日放送(テレビ)の天気予報のBGMは、今も東さんの手によるものが使われています。「ポピポパピポピーポピポパー、ポピポパピポピーポピポパー…」と聴こえる曲です。

 第二部は井上さんが舞台上手に立ち、Roland XP-50が中央に設置され、鼓を手にした清水さんが下手に座りました。

 今度も私の席は、清水さんの鼓の音や「ヨー、ホー」の声を、スピーカーだけでなく原音を聴くことができました。また、鼓を打つ手指をよく観察する事ができました。手のひらで漫然と叩くのではなく、人差し指、中指、薬指を使っていたり、リム(縁:へり)の部分に親指で振動を送る(ように見えた)といった、鼓を弾くという行為を目にする事ができました。私なりに咀嚼して、いずれパーカッションシンセサイザーKORG WAVEDRUMの演奏に活かしたいと思います。

 スクリーンには井上真美/Azumaユニットの公演での東さんの姿や、公演前にこのユニットについて語る東さんの映像と肉声が流れました。

 公演の終盤、清水さんが1度舞台から退出されたのですが、衣装を紋付袴からカジュアルな服に替えて登場され、おもむろにギターをお持ちになりました。そして清水さんが作った曲「天国の鐘」を、井上さんとともに披露されました。東さんのシンセパートは無く、井上さんの篠笛と清水さんのギターだけです。しかしながらこの曲に、私は最も東さんを感じました。

 私は平成22(2010)年12月、東さんと4回酒席を交えたという顛末を、追悼 東祥高さんに書いたのですが、お二人が奏でるこの「天国の鐘」に、ニュートンスタジオの入っている建物の1階のあの店で酒を楽しんでいる東さんの様子を、はっきりと感じました。今回の公演で私が最も感動したのは、東さんが参加していない、しかし最も東さんの面影を感じる事が出来た、この「天国の鐘」です。

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 会場で配布されたリーフレット。アナログシンセ時代の東さんのお姿が載っています。

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 「追悼 東祥高に捧ぐ 篠笛の響きコンサート」のレパートリーです。

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 前売券購入者に贈られた東祥高さんのアルバム「Beyond the Ages 〜時を超えて〜」(世界文化遺産)。ジャケットのポスターデザインは池田満寿夫さん(平成9:1997年没)。

 東さんはご自分のアーカイブが残る事を良しとされなかったようです。しかしながら、私は「人のいやがる事をすすんでしなさい」という言葉を、時に世間とは違う解釈をする事にしています。

 私は日本コロムビアやプライベートミュージック、NECアベニュー等から出された東さんの数多の一人多重録音作品の再発を望むものであり、東さんの作品等について今後もこのブログに記していきたいと思っています。

 そして、その事は既に実現し始めています。アナログシンセサイザー時代のアルバム「ファー・フロム・エイシア」「エイシアン・ウィンド」「ムーンライト・オブ・エイシア/東祥高の世界」の3枚が、来る平成25(2013)年4月17日、日本コロムビアからCDとして再発されます。私はLPしか持ってなく、またアナログプレイヤーを平成3(1991)年末に手放してしまったので、足掛け22年ぶりに耳にする事ができます。

 昨今、シンセサイザーの使われ方が、至極簡単に、楽に、そして適当な方向へ偏り過ぎている感じがして仕方がありません。そういう趣向指向の人の事を悪いといっているのではなく、本来固有の音を持たないというこの楽器の可能性は、深く広大だと言いたいわけです。

 そして、東祥高さんというシンセサイザー奏者は、楽に、簡単に、そして適当な方向、とは違う、深く緻密な思慮を以てこの楽器とつきあった人ではなかったかと思えます。私が東さんの作品の再発を望んでいるのは、そういう理由からです。

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 昨年平成24(2012)年10月11日にこの世を去った作曲家/シンセサイザー奏者、東祥高(あずま・よしたか)さんの追悼公演が催されます。

 出演は、井上真美/Azumaユニットの篠笛奏者、井上真美(いのうえ・まみ)さんと、大倉流鼓奏者、清水晧祐(しみず・こうすけ)さんです。

 井上真美/Azumaユニットは、童謡や叙情歌、オリジナル曲、あるいは万葉歌を、井上さんの篠笛と東さんのシンセサイザーで演奏してきました。昨年、八軒家浜での平成OSAKA天の川伝説2012で演奏を披露しています。対岸の南天満公園からですが、私が東さんの演奏を聴き、姿を見た最後となりました。

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 公演はあるいは、井上さん、清水さんの演奏と、東さんが残した演奏の音源とが、共演する形になるのではないかと思われます。またかつての公演の映像も披露されます。

 公演の日時は来る平成25(2013)年2月9日(土)、開場13時、開演13時30分の予定。公演会場はクレオ大阪西。

 チケットは前売3,000円、当日券3,500円。

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 前売り特典として、東祥高さんのアルバムCD「Beyond the Ages 〜時を超えて〜」(世界文化遺産)がいただけます。このアルバムは、平成5(1993)年の法隆寺及び姫路城の世界文化遺産指定を受けて制作された作品です。

 前売券の申込方法は、封書、葉書、ファックスでの受付で、購入枚数、住所、氏名、電話番号を明記の上、「篠笛の響き制作委員会 クレオ係」様宛にお送りください。前売券は申込受付後郵送されます。代金は券到着後お振込です。


 篠笛の響き制作委員会 クレオ係

 郵便番号536-0016 大阪市城東区蒲生2-2-43メゾンドヴィル310
 ファックス番号06-6955-8476

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 会場のクレオ大阪西の略地図です。JR大阪環状線西九条駅から徒歩3分。

 大阪朝日放送のテレビの天気予報のBGMが今も東さんの手によるものである事や、昨今のポピュラー音楽に全く魅力を感じない事もあり、私の中で東祥高さんは、今も精力的に活動中の作曲家/シンセサイザー奏者である事に変わりはありません。

 東祥高名義の一連の一人多重録音作品では一切共演者を起用しなかった東さんが、篠笛や鼓とどういう形で共演するのか、この公演で体験したいと思います。

 追悼 東祥高に捧ぐ 篠笛の響きコンサートを聴きましたへ続きます。

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 平成24(2012)年10月11日、作曲家/シンセサイザー奏者の東祥高(あずま・よしたか)さんがお亡くなりになりました。

 日本の、そして特に関西のシンセサイザー黎明期から、既に活動をされていた人です。フォークグループ「五つの赤い風船」の元メンバーで、後にシンセサイザーを駆使した音楽の制作を始められました。

 東さんは昭和22(1947)年、奈良県大宇陀町のお生まれです。大宇陀町は平成18(2006)年、宇陀市となりました。宇陀市の市歌「うるわしの里 宇陀のまち」の作詞作曲は東さんです。

 昭和55(1980)年、私がよく行くレコード店が発行していた、取り扱っているアルバムLPに寸評を添えてカタログ化した小冊子の中の「シンセサイザー音楽」なるジャンルのページに、冨田勲、神谷重徳、東海林修、喜多郎といった方々と並んで、東祥高さんのお名前と作品評がありました。それをきっかけに日本コロムビア時代、言い換えればアナログシンセ時代の東祥高さんの作品を聴くようになりました。

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 キーボードマガジン昭和56(1981)年12月号の記事で、東祥高さんが朝日放送で「シンセワールド」というラジオ番組のDJをされている事を知りました。
「シンセーワールドシンセーワールド、1度〜聴いたらやめられない、皆で聴けば〜こわくない…」
という歌詞のあのテーマ曲を知っている関西人は、おそらくその頃、既にシンセを始めていたか、私のようにカタログを集めていたような人だと思います。

 シンセに興味を持っている人間が、私が通う中学校に私を含め二人だった頃、番組中、時に「VCO」「エンベロープ」といった語彙が出て来るだけで、妙な興奮をおぼえていました。夜は苦手なのですが、毎週放送時間を心待ちにしていました。

 また、この頃、雑誌のインタビューやお書きになった記事をよく読みました。

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 例えば、サウンド&レコーディングマガジン昭和57(1982)年2月号(創刊2号)の「SYNTHESIZER HOME RECORDINGベーシック編1」は東さんの手によるもので、機材の列挙やニュートンスタジオのグラビアもありました。ニュートンスタジオのグラビアは、東さんの記事だけでなく、他のシンセ記事の中にもよく使われていました。ちなみに「ベーシック編2」は、姫神せんせいしょんの星吉昭さんでした。

 昭和58(1983)年、東さんのニュートンスタジオのシンセが、アナログ(ARP ODYSSEY、minimoog、custom minimoog、polymoog、moog the source、Oberheim Synthesizer Expander Module 4VOICE、Roland SYSTEM-700、VP-330SEQUENTIAL CIRCUITS prophet-5等)からデジタル(FAIRLIGHT C.M.I. II、E-MU EMULATOR、PPG wave2.2等)に完全に変わりました。

 同年のキーボードマガジンのインタビューに、アナログには良い所もあるが悪い所もあるから、とその理由を明かしていらっしゃいました。後にKURZWEIL 250やC.M.I. III、E III、そして当時日本では小室哲哉さんのものを含め2台しか無いAUDIO FRAME(オーディオフレーム)等が加わりました。

 私が東祥高さんの作品の影響を色濃く受け始めたのは、この頃からです。

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 NHK関西圏「きんき紀行」「平城京ロマンの旅」「ちょっといい旅」のあの軽快なテーマや、NHK「国宝への旅」の清澄な、そして時に重厚なBGM、アメリカ・プライベートミュージックレーベルから出たアルバム「AZUMA」「Wanderer」、NECアベニューからの「救いの宇宙」「阿騎野(あきの)」「やまとしうるわし」等を聴きました。

 特に音色の存在感が、単にデジタルであるからだけではなく、例えば吹奏系に息継ぎの間(ま)を入れる、ストリングスだと弓の上げ下げを意識するといった事等に起因しているのを、東さんの作品で気付き、採り入れました。結果、稚拙ながら自分の演奏に、より有機的なマニュアル感が加わった事を実感しました。

 また、私はリズムパートを所謂キーボードラムでベロシティを効かせ、いかにも「一打ち一打ち違うでしょ?」と言いたげな多くのキーボーディスト達の演奏に、時に小細工感ともいうべき違和感を感じていたのですが、アルバム「阿騎野」の「燃える阿騎野ヶ原」の和太鼓のサンプル音に一切ベロシティがかかっていないのに味気なさが感じられない事に感銘を受け、以後通常のリズムにはアクセントを加える程度にしました。

 いずれにしても、単にピアノやオルガンからの持ち込みではない表現を、東さんのデジタルシンセ作品が教えてくれたと思います。外国人や幼い頃からピアノ/オルガンを習っています的な人達のシンセ演奏がどうも好きになれないのですが、私にそういった事から外れた演奏を聴かせてくれるのは、東祥高さんはじめ、日本の演奏家ばかりです。日本人は、シンセサイザーの製造だけではなく、表現にも長けた民族だと思います。

 平成22(2010)年12月、東祥高さんと会食する機会を得ました。ニュートンスタジオのある建物の1階の、小松左京さんもよく利用したお店です。

 最初は気後れしてあまり話せなかったのですが、東さんの諸作品の話題になった時、多産の作家である東さんは曲の構成等を急には思い出せず、結構細部にわたって憶えている私が、僭越ながら時にフレーズやシンセ音色の口真似を交えた解説をさせていただきました。急に熱が入って饒舌になり、作者本人に向かってまるで我が事のように作品のディテールを滔々と語る、はなはだどあつかましい私が滑稽だったのか、しまいにはテーブルの上に突っ伏し、頭を抱えて笑ってしまわれました。その後、黎明期のシンセのお話から自作品の事に至るまで、本当に様々な事を教えていただきました。

 この席の後、上の階のニュートンスタジオを案内していただけました。既に海外製の大鑑巨砲主義的なモデルは一線を退いていて民生機が主だったのですが、それでもプロの音楽家のえぐい機材群に目をみはり、また、ここで作品群が生まれたのかと、しばし感慨に耽りました。

 東さんが「これ、持っていき」と物置の棚から下ろして来たのは、通常とは違う姿をしたminimoog(ミニモーグ)でした。「SYNTHESIZER HOME RECORDINGベーシック編1」記事中カスタムミニムーグとされた個体です。Roland SYSTEM-700と併せて使う為に、簡便なパッチングができるように改造が施されていました。昭和58(1983)年にニュートンスタジオからアナログシンセが去っていく中、ただ1台、この場所で27年余眠りについていました。

 固辞したのですが、結局いただきました。今、大きな招き猫のビオンボ嬢と並ぶ看板娘として、たくまざる愛嬌と、アナログシンセ嫌いの私をして顔色を失わせしめる凄みのある音を出してくれています。

 結局その月に私は東さんと4回席を同じくする機会を得、その後、私は開店準備に没入し、お目にかかる事はありませんでした。

 昨日(平成24:2012年11月29日)implant4さんにお邪魔したおり、東さんの訃報がツイッター上にある事を知らされました。正式な発表は無いものの、五つの赤い風船のメンバーの方のつぶやき等から、それが事実であると認識しました。

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 願わくば、東さんの日本コロムビア時代をはじめその後の作品を、東さんを知らない人達も聴く事ができるようになればと願っています。できればCDという形、そしてアルバムのほとんどに添えられた小松左京さんのライナーノーツを再録する形で…。

 私が東さんの作品の中で最も好きな曲は、アルバム「阿騎野」に収められた「光の舞」という小品です。静かな出だしの後、前半で不意に光が差し込んで来たようなクライマックスが起き、その後その余韻が静かに続いて消えるという、簡素な、しかし東さんの清澄な美意識が凝縮されたような、大変美しい曲です。

 素晴らしい作品を聴かせてくれた東祥高さんに、感謝したいと思います。ご冥福をお祈りいたします。

 追悼 東祥高に捧ぐ 篠笛の響きコンサート、および追悼 東祥高に捧ぐ 篠笛の響きコンサートを聴きましたに続きます。


平成25(2013)年3月9日追記。

 日本コロムビア時代、つまりアナログシンセサイザー時代の東祥高さんのアルバムが、来る4月17日、初CD化という形で再発されます。

東祥高 エイシアン三部作
http://columbia.jp/azumayoshitaka/

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 昭和56(1981)年6月に講談社から刊行された「喜多郎 マインドミュージックの世界」を紹介いたします。当時中学2年生だった私は発売と同時に手にしました。

 喜多郎さんが高校生の頃にバンドを始めてから、上京、ファーイーストファミリーバンド、第何サティアンとかいう建物が無かった頃の富士山2合目でのデビューアルバム「天界」の制作、NHK特集「シルクロード」の音楽担当、同番組の敦煌編の取材の為の河西回廊旅行までを辿る形で、喜多郎さんご自身の文と、編集者による取材文とで構成されています。

 バンドを組むにあたって鍵盤を選ぶ事になったあまりにもあっけない理由(なぜ喜多郎さんがマルチプレイヤーなのかという事情とも後々関わってくる)、活動を重ねていく中で次は何を為すべきかと自問する向上心、ファーイーストファミリーバンドのアルバム制作に参加したタンジェリンドリームのクラウス・シュルツさんの言葉、作風の変化、「シルクロード」…、乱読派でありながらエッセイの類いを読まなかった中学生の私にとって、その頃関心の大半を占めていた演奏家が主人公の青春記との出会いでした。

 向上心を持ち努力家ながらも、どこか気負った感が濃厚とは言い難い若き喜多郎さんが、「絲綢之路(しちゅうのみち)」に達して私の前に現れるまでを、この本で知りました。

 次のステップへと進むにあたってその方向/方法が分からない時に、不意に向こうから人が現れて導いてくれるという事が、誰の人生にもあると思うのですが、喜多郎さんの場合も文中で自ら
めぐりあわせの妙
と表現する邂逅が、本当にしばしば登場します。

 それは時にクラウス・シュルツさんだったり、タイの警察の偉いさんだったり、アルバム「大地」からアルバム「絲綢之路」制作期まで住んだ鎌倉市腰越の大家さんやそこを紹介した不動産屋さん等々…。「喜多郎 マインドミュージックの世界」は、それら“めぐりあわせの妙”によって引き合わされた人々に対するオマージュなのかもしれません。

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 表紙。アルバム「OASIS」のジャケットの流用。

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 著者近影。インドの撥弦楽器サントゥールを弾く喜多郎さん。

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 背表紙。

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 既に改革開放路線が始まっていたとはいえ、昭和56(1981)年の天安門広場でこんな事をして怒られなかったのでしょうか。

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 長野県北安曇郡八坂村(現、大町市)の自宅兼プライベートスタジオの縁側でアコースティックギターを弾く喜多郎さん。

 「空の雲」(アルバム「氣」より)は、ギターのコードワークから生まれた曲だそうですが、こんな風に縁側で曲想が固まっていったのかもしれません。

 ちなみにこの家のご先祖には、“喜太郎”さんという方がいらっしゃいます。

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 SEQUENTIAL CIRCUITS prophet-5を弾く。このprophet-5は「prophet-5」のロゴが大きく、ヒートシンクが無いリビジョンです(シンセサイザーフェスタ’09見聞記の矢野顕子さんのブースの画像参照)。

 prophet-5の台になっているのはメロトロン(「遥かなる大河」参照)。その奥にあるのはminimoog、KORG 800DV。喜多郎さんの背面にあるのはmini KORG 700S、Roland SH-3。ローランドかボスのグラフィックイコライザーも見えます。

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 昭和56(1981)年元旦、NHK「ゆく年くる年」でのテーマ曲演奏。

 「喜多郎 マインドミュージックの世界」には、前年の同じ時間に伊豆大島三原山で、自身の為に開いた公演について触れています。その文中、
私はなぜか正月を同じ場所で迎えた事がない。毎年、迎える場所も違うし、一緒に迎える人も違っている。
という意味の記述があります。


平成27(2015)年6月27日追記。

 喜多郎さんの「OASIS」「絲綢之路」「敦煌」「氣」のジャケット画、そしてこの「喜多郎 マインドミュージックの世界」に「荒野の声」を寄稿したイラストレーターの長岡秀星さんが、平成27(2015)年6月23日、この世を去りました。

 喜多郎さん関連だとジャケット画以外に、「OASIS」のライナーノーツ寄稿、そして、昭和56(1981)年に放映されたNHK特集「喜多郎&秀星 砂漠幻視行」で、喜多郎さんとアメリカのモハベ砂漠を旅し、「砂漠」をテーマに共作しました。

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 動画投稿サイトYouTubeで見つけた、昭和61(1986)年の「24時間テレビ」での喜多郎さんのバンドの「大銀河/MILKY WAY」演奏の映像に関するつぶやきです。


喜多郎さんのライブ形式の「大銀河」 http://www.youtube.com/watch?v=zLDOQdehzv8  '86年の24時間テレビの映像。

カーツウェルやCASIO CZ、そしてバイオリンを弾く都留教博さんや、2年前に亡くなった元一風堂の藤井章司さんの姿も見えます。

冒頭のprophet-5による可愛らしい音、私はKORG TRITONで真似ました。ポリモジュレーションが無いので苦労したのですが、そのかわり両手による1オクターブユニゾンではなく片手で弾けます。

途中DX7で鳴らす音は「ウォーターガーデン」というプリセット音です。Roland VP-330の下にあるDXで鳴らしている女声コーラスは都留さんの所にあるKURZWEIL 250で、MIDIで繋がっています。

それにしてもDX7は良いルックスだなあ。KORG M1、TRINITY…。つまみが無いのが良い。調べてみたら私が気になるシンセ、もうほとんど5万円切っている。DX7、M1は2万切ってる。買おうかな。


追記。

 「大銀河/MILKY WAY」は、この年(昭和61年)10月25日にゲフィンレコードからの世界発売の1枚目、アルバム「天空」のラストナンバーとして収録されています。

 アルバム「天空」の収録曲は、既に前年昭和60(1985)年10月6日両国国技館での「YAMAHA SPECIAL '85」や、翌年2月の「偏西風」ツアーで披露されました。

 他の作品もそうなのですが、特に「天空」に関して特にアルバムとライブでまるで趣きが違い、後者を聴いた後で前者を聴く気が湧かず、私はLPレコードは持っているもののCDは未購入です。

 アルバム「天空」収録曲は、昭和62(1987)年1月、FM東京系「日清パワーステーション」でスタジオライブ形式でオンエアされたのですが、以後、その録音テープのみを聴いてきました。

 ライブの「大銀河」は、ギターのアルペジオに喜多郎さんのSEQUENTIAL CIRCUITS prophet-5(シンセサイザーフェスタ’09見聞記の矢野顕子さんのブース参照)のベルが乗り、mini KORG 700SリードKORG 800DVブラストーンリード、荒木博司さんのギターとメロディが変わりながら曲に壮大さが加味されていき、最後にバイオリンとmini KORG 700Sリードが静かにメロディを奏でて終わる、という構成です。

 「日清パワーステーション」では曲が高揚しきった所で、喜多郎さんがRoland VP-330の下にあるYAMAHA DX7の鍵盤で、都留教博さんの所にあるKURZWEIL 250の男女のコーラス音をMIDIを介する形で演奏したのですが、私はこの部分が他のどの曲よりも壮大さや深遠さを感じて好きでした。このYouTubeの「大銀河」ではいつもの800DVです。

 曲の冒頭で喜多郎さんがprophet-5のポリモジュレーションで出しているらしい可愛らしいベルの音、アニメ映画「1000年女王」のBGMで多用されたのですが、私はコルグのワークステーション機のオシレータのサイン波を二つ使い、片方のピッチをEGで乱高下させるという、全く別の方法で再現しました。アナログシンセのEGのADSRは、スタートレベル/リリースレベルが0固定、アタックレベルが最大値固定なので、同じ方法は使えません。

 また、このベルを弾き終わって右手でmini KORG 700Sを弾いている時、前もって左手でprophet-5の音色をホルンに変えている所作が映っています。

 MIDIシーケンサーQX1を始めとするYAMAHA Xシリーズや打弦式電気ピアノYAMAHA CP80、minimoogを担当した林知行(はやし・ともゆき)さんは、たしかこの時期キーボードマガジンに「MIDIアレンジャーのためのスコアリングテクニック」という連載を持っていて、その最終回は喜多郎さんのバンドのMIDIシステムや自身と都留教博さんのブースの機材構成の紹介記事でした。

 KURZWEIL 250、CASIO CZ、そしてバイオリンを担当した都留教博(つる・のりひろ)さんは、CASIO FZ-1とサンプルライブラリーFL NewシリーズのPR用付録ソノシート「Welcome To The FZ-1 & FL New Series」(D-50、DW-8000、FZ-1のソノシートもつぶやく参照)の「Wet Dream」の作/編曲/演奏者でもあります。

 ドラムを叩いている元一風堂(いっぷうどう)の藤井章司(ふじい・しょうじ)さんは、翌年の全米ツアーの為にアメリカ人のバンドが編成されるまで、長く喜多郎さんの公演でドラム/パーカッションを担当されていました。平成21(2009)年2月6日、この世を去っています。

 この頃の喜多郎さんのステージは、各パートの奏者達が皆とにかく巧(うま)く、シンセサイザーの数が多く、後の全米ツアー以降のアメリカ人の奏者達を連れての逆輸入バンドより好きでした。

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 冨田勲さんのアルバム「惑星 ULTIMATE EDITION」を聴きました。

 まず、CDの帯には
完全リメイク版
新しい機材の採用によって作品全体が完全に新たにリメイクされました
とあったので、てっきり1から新たに制作された物かと思ったのですが、実際は昭和52(1977)年の「惑星」の音源を元に、サラウンド効果の付加と後に掲げるモーグやローランドのシンセによる音の付け足しが為されたというものでした。要するにリミックス盤でした。

 私はサラウンド効果を体験する環境を持っていない事と、その効果に必ずしも乗り切れない感性の持ち主なので、あくまでステレオ音場で聴取したという前提で、記事を書いていきたいと思います。今回は基本的に1977年盤「惑星」には触れません。

 キーボーディストでもなければDTMキーパンチャーでもない、昨今絶えて久しい感のある“シンセシストの成果物”に触れたくてこのアルバムCDを買ったのですが、結果的にそのどれでもない“ミキシングエンジニアの成果物”という印象を持ちました。

 このアルバムに対する最大の感想なのですが、今回継ぎ足した部分と既存の部分が上手く混ざり合っていないと思いました。もちろん私が1977年盤「惑星」を30年以上、何度となく聴き続けて来たが故に、それが聴覚や感性に染み付いているという事情はあります。

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 1977年盤「惑星」の完成度は、作者である冨田勲さんご自身をも寄せ付けなかったという事ではないでしょうか。継ぎ足した部分の違和感をほぼ全編に渡って味わい続けました。

 あるいは、実は私が既存の物だと思ったアナログシンセのパートは、今回もモーグで演奏・録音されたのかなとも思ったのですが…。

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 例えば1977年盤「火星」冒頭のロケットの噴射音を、全く同じ方法で後年の「冨田勲の世界」で録音してみたら、後者収録の方が良い結果であると冨田さんご自身が「冨田勲の世界」に書かれています。アナログシンセサイザーは良きにつけ悪しきにつけ時や場所等が変われば寸分変わらず同じ風合いの音を得る事ができるとは考えにくく、全編モーグを鳴らし直したとは思えません。

 ちなみに今回使用された機材は、moog system 55、Roland JUPITER-80GAIA SH-01、VP-7、VP-770、SD-50。DAWはsteinberg Nuendo。

 サラウンド効果の環境を持っていない私がどうこういう筋合いの話ではないのですが、音場に関する私の考えを付記したいと思います。

 高輪の冨田勲さんのスタジオで収録され、平成元年(1989)年3月26日に放映されたNHK総合「てれび自由席 わたしの番組批評」というインタビュー番組で、総合テレビの大相撲の実況中継はステレオなのに、その裏の教育テレビのオペラ「ばらの騎士」(リヒャルト・シュトラウス作)はモノラルで、ステレオで聴きたいのであれば同時に放送しているFMを利用するようにというスーパーが繰り返し画面に出たが、相撲はステレオでオペラがモノラルなのはおかしい、という指摘をされました。

 当時、オペラを劇場で体験するのが難しい身分だった私には、たいへんありがたい指摘だと思いました。この後、教育テレビのステレオ放送が始まったか、既に始まってはいたが飛躍的に増えた記憶があります。

 冨田さんの「バッハファンタジー」のライナーノーツに、NHKの演出家・和田勉(わだ・べん)さんと溜池のサウナの中で交わした議論が載っています。和田さんは映画館のワイドスクリーンを否定し、映画もテレビも古い四角画面で良い、オーディオで聴く音の本質はモノラルにこそあるとし、冨田さんは目や耳が二つあるのはそれで得られる情報を体自体が必要としている、だからオーディオもステレオであるべき、というのがお二人の論旨でした。

 私はもちろんステレオ派なのですが、最近、あくまでアンプ/スピーカーを使うという前提でですが、音の本質を得る上で音場が必要十分条件だとも思えなくなってきました。その理由は三つあります。

 一つは最近モノラルのSP盤を聴く機会があったのですが、ステレオ音場に配されるのとはまた違う音の表情を楽しめたからです。ちなみにSP盤にはもちろんステレオもあります。

 もう一つは動画投稿サイトです。画面は小さく、粗く、音もモノラルですが、それでも自分が意外に楽しめている事に気付いたという事。

 そして、昨今の映画館での、左右だけでなく後からも音響が聴こえてくる事の違和感です。ステレオまでは良かったのですが、登場人物の台詞は前から聞こえてくるのに、雑踏や風、異星人の攻撃を受けて狼狽する武官達のどよめきといった音が後ろから聞こえてくる事に、臨場感よりもわざとらしさを感じてしまうのです。

 井上靖の小説「敦煌」が映画化され、昭和63(1988)年に公開されました。渡瀬恒彦さん扮する西夏の王太子李元昊(り・げんこう)が、甘州に拠るウイグル軍との合戦を前に全軍を督励する場面、李元昊の西夏語の言葉が、漢(日本)語、吐蕃語、ウイグル語といった言語に訳され各外人部隊に伝えられるのですが、これがステレオ音場に配されていて、微妙に言葉の終わりに速い遅いがある事と併せて臨場感が出ていました。もし、これに前後が加わっていたらどう感じただろうなと思います。

 もちろん、前後で聴いてみたい音もあるにはあります。その一つは冨田さんのアルバム「宇宙幻想」に収録された「パシフィック231」(作曲アルチュール・オネゲル)の踏切の音です。この音を左右で聴くのは、席が長い、進行方向へ垂直に載せられた、要するに通勤電車のような音場なのですが、蒸気機関車の牽引する客車は、進行方向もしくは逆に向いた音場であり、この作品の場合は後者こそがシチュエーションに忠実なのではないかと思ったからです。

 組曲「惑星」に関して作曲者グスターブ・テオドル・ホルストは、この曲の編曲等の改変は慎まれなければならないと遺言し、長く遺族によって守られてきました。1977年盤「惑星」はそれを合法的にクリアして世に出、そして現在、ホルストの著作権は失効しています。

 しかしながらアルバム「惑星 ULTIMATE EDITION」の「木星」「土星」の間に、冨田さんの手による「イトカワとはやぶさ」なるオリジナル曲が挿入されている事に違和感を覚えます。原作者へのリスペクトとして「惑星」ではなく、糸川英夫さんがライナーノーツを担当した冨田さんのアルバム「宇宙幻想」か、せめて「惑星 ULTIMATE EDITION」の最後に収めるかにしていただきたかった。

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 アルバム「ZIPANGU姫神」がリリースされた平成4(1992)年は、バブル経済崩壊の衝撃波が、日本社会の隅々に至るまで波及した年でもありました。前年まで、ここには書けない放恣(ほうし)な暮らしをしていた私のアフターファイブは、灯が消えたようにすっかり寂しいものになってしまいました。

 また1992年は、コロンブスがジパングへの西回り航路へ船出してから、ちょうど500年にあたりました。それらに関する書籍を読み直していくうち、「東方見聞録」やモンゴル帝国支配下の事柄に興味が拡がっていきました。

 モンゴルのチンギス・ハーンの誕生から、欧亜にまたがる大帝国の出現、ヨーロッパの大航海時代、日本の安土・桃山時代の南蛮船の来航や朱印船貿易に至る数世紀は、それまでバロキアル(地域限定的)だった人類の活動が、地球的規模でリンクされ始めた時代でした。

 その遠因となったのが、東の海の彼方に黄金の島があるという、あくまで私見ですが多分に作為的(ZIPANGUの背景参照)な伝説でした。このはなはだいい加減な伝説に夢をかけて、ユーラシアの東と西の人々が大きな犠牲を払いつつ、時代を切り開いていきました。

 姫神・星吉昭さんは、その同じエネルギーの発露を、バブル経済崩壊後の畏縮した日本人に期待したのかなと、私は考えています。バブル絶頂期の、日本全体が忘年会の乱痴気騒ぎみたいな様相を呈していた頃、アルバム「姫神風土記」や「イーハトーヴォ日高見」といった恬淡な作品を作ってきた星さんにとって、バブルの崩壊は、逆にハレの日々の始まりだったのかもしれません。

 アルバム「ZIPANGU姫神」に関して、ほのぼのとした牧歌的なニュアンスが感じられない、姫神らしくない、という感想を、周囲の人達から聞きました。そして星さんは、まさにそういう仕上がりの作品を目指したのだと思います。

 このアルバムに、日本は直接的には描かれていないような気がします。あえて意識のフレームから外したと思います。このアルバムのタイトルは「ZIPANGU姫神」。多分に観念的な意味での日本の呼称ジパングを、さらにアルファベット表記していることからそう考えました。それまでの作品とは描く対象が違う。人類が地球的規模での活動を開始した数世紀を描く以上、いやが上にもダイナミックな編曲・演奏になると思います。

 そして、アルバム「北天幻想」以降、星さんがほぼ一人で演奏までを行う制作スタイルが定着していましたが、「ZIPANGU姫神」から、再びアコースティック楽器とその演奏家が起用されました。すなわち、バイオリン/スライドギター/ブズーキ佐久間順平(さくま・じゅんぺい)さん、パーカッション菅原裕紀(すがわら・ゆうき)さん。

 昨年来、私はある事情で、東京都内のJR中央線沿線を何度か彷徨したのですが、フォークシンガー高田渡(たかだ・わたる。故人)さんゆかりの吉祥寺のある店で、生前の高田さんのライブDVDを観る機会がありました。高田さんのバックでバイオリンを弾いていたのは、佐久間順平さんでした(エンディングの字幕で判った)。

 菅原裕紀さんは、後に佐久間さんと一緒に姫神の公演にも出演されました。一度、姫神のステージでのメンバー紹介の時、パーカッションを使って艶かしいというか官能的な音を出したのですが、姫神の聴衆にウケたとはいい難かった。ただし、姫神ヴォイスのお姐さん達は、舞台上でお喜びだった記憶があります。

 平成11(1999)年前2月岩手県玉山村で星さんに、レコーディングにもドラムセットと演奏家をフィーチャーしてくれませんかと、お願いした事があります。星さんからは、「リズムボックスが出て来た時、これを新鮮だと感じた。人間の叩くドラムが、どんなシチュエーションにおいてもベストだとは思わない」といった意味のお答えをいただきました。

 描く対象も、曲想も、制作の形も、それまでと違う新しい姫神に、私はたいへん感動しました。アルバム「ZIPANGU姫神」も、私が深く愛している作品です。

 アルバム「ZIPANGU姫神」の収録曲は、「風、大循環に」「うら青く波涛は澄み」「光の海南」「東方エルドラド」「金銀島」「白くひらける東のそら」「燐光」「天翔ける」「火振り神事〜Zipanguのテーマ〜」。

 昨今、日本の内外に降り懸る種々(くさぐさ)の事柄を思う度、私は無性にアルバム「ZIPANGU姫神」を聴きたくなります。「火振り神事〜Zipanguのテーマ〜」がフェイドアウトしていく時にいつもこつ然と私の脳裏に現れる、打ち寄せる波に白く縁どられた、そして、なぜか実際より大陸からひどく遠くに横たわる日本列島…。“今、日本内外に降り懸る種々の事柄”は、逆に日本人が覚醒し、日本国が雄飛する力にもなると思います。

 アルバム「ZIPANGU姫神」がリリースされた平成4年は、私が初めて姫神の公演を体験した年でもあります。12月20日、岩手県江刺市で行われました。姫神せんせいしょんを知って以来、まもなく10年が経とうとしていました。テレビの映像や雑誌のグラビアではなく、目の前で姫神夫妻が演奏している事に感動しました。

 そして、来る10月1日は、平成16(2004)年にこの世を去った、姫神・星吉昭さんの命日です。

 夜半、知人から電話であの報を受けてから、もう6年か…。遺してくださった作品群は、その後も全く色あせる事なく私を魅了し、様々に思慮を巡らせる縁(よすが)になり続けてくれています。
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 「東方見聞録」においてマルコ・ポーロが述べた日本は、屋根、柱、テーブル等あらゆるものが黄金でできている、取り尽くせないほど金が出る、としています。そしてこのイメージは、平泉の中尊寺金色堂から来たとする説を、幾人かの知識人や姫神・星吉昭さんが採っていらっしゃいます。しかしながら、私は疑問を持っています。

 アルバム「ZIPANGU姫神」に関する記述の前に、少々長いのですが私が聞きかじった説(かなり古い話です)、および私が考えた説を紹介させていただきたいと思います。私はこのアルバム「ZIPANGU姫神」を、以下の事柄と併せる形で聴いているからです。

 ベネチアの商人マルコ・ポーロが、フビライ・ハーン施政下のモンゴル帝国に来た頃、南宋と日本の貿易は未だ行われていました。十三湊(とさみなと)や博多には、宋国人が来ていました。恐らく彼等は日本の金銀の産出量を、ある程度掴んでいたのではないでしょうか。我々が考える以上に日本についての情報を持っていたのではないでしょうか。

 確かに当時の日本の金銀の産出量は、世界的に見ても大なるものがあります。しかし「東方見聞録」の記述は大仰です。十三湊に来た南宋の商人は、既に滅亡した平泉の故地に足をのばして中尊寺の金色堂を見ても、そこここでつかみ取りできるほど日本列島に黄金があるとは考えなかったと思います。

 しかしながら、つかみ取りできるほどの黄金が出るという大仰な噂の出所は、宋国人だと考えられるそうです。マルコ・ポーロは、日本を“ジパング”と呼んだからです。“日本国”は宋代の読みだと“ジィベングゥ”だそうです。

 当時、南宋はモンゴル帝国と戦っていました。南宋としてはモンゴルの鉾先をそらす意味で、「東の海の彼方におびただしい量の黄金を産する島がある」という噂を流し、これをフビライが信じて日本への野心を抱いた、という見方があるそうです。

 フビライの称臣朝貢の要求は、時の鎌倉幕府執権北条時宗(ほうじょう・ときむね)によって拒絶され、2度の元冦(文永、弘安の役)に至りました。

 そして噂が波及した効果は、やがて宋国人自身に大きな災厄となって降りかかって来ました。元冦の第2次、弘安の役には、滅ぼされた南宋の敗兵が徴せられました。因果応報です。支那の歴史にはままあることです。

 また、南宋の流したこの噂は、「東方見聞録」によってヨーロッパにもたらされました。たしかコロンブスが携えていた「東方見聞録」のジパングに関する記述の個所には、たしか指差しマークやコメントが書き込まれていたといいます。

 そのころヨーロッパでは、地球は球の形をしている、という仮説が挙がっていました。その仮説が事実なら、シルクロードを東へ旅するより、船で海路を西へ進む方が、ジパングへ速く着く…。アメリカ大陸と太平洋の存在を知らなかったヨーロッパ人はそう考えました。大航海時代は、華々しいジパング黄金伝説に誘われて、幕が開きました。

 先に挙げた説とは別に、私はフビライサイドからこの噂が流された場合について、考えてみました。元冦においてモンゴル本国が出した兵力は、そのほとんどがモンゴルに国を滅ぼされた女真(ジュルチン/じょしん)人、そして、かつてその女真に国を滅ぼされた契丹(キタイ/きったん)人(特別展「草原の王朝 契丹」が催されます特別展「草原の王朝 契丹」を観てきました参照)でした。生粋のモンゴル兵は150人程だったそうです。

 女真、契丹とも、かつては狩猟や遊牧をしていた民族です。彼等はいずれも黄金に格別の思いがあったようです。モンゴルが滅ぼした女真人の国の名は“金”でした。

 また、私は昭和63(1988)年のなら・シルクロード博で、旧ソ連が出展したスキタイ・サカ人の黄金の甲冑(黄金人間)のレプリカや、ヘラジカやライオンなどを象った黄金の馬具を見ました。精緻を極めた見事なものでした。スキタイ・サカの後裔が契丹だそうです。

 黄金に格別の思いのある、故国を滅ぼされた民族に、風濤の彼方の島国に関心を持たせ士気を高めるために、黄金郷をでっち上げたというわけです。もちろん、これはアカデミズムとは無縁の、私の珍説にすぎません。

 いずれにしても、日本がエルドラドであるかのごとき風評は、多分に思惑が絡んで意図的に流布されたというのが私の見方です。中尊寺金色堂のイメージの拡大解釈ではない、と私は考えています。

 アルバム「ZIPANGU姫神」に続きます。
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 蝦夷(えみし)は騎射に長け、時に10倍に及ぶヤマトの兵力を、しばしば機智に富んだ戦術で破りました。「早池峯(はやちね)」に、陸奥、出羽の山野を疾駆する蝦夷の兵馬の幻影を感じます。

 そういえば平成5(1993)年後半の大河ドラマ「炎立つ」の前九年の役の黄海(きのみ)の合戦のシーンで、源頼義(みなもとのよりよし)、義家(よしいえ)父子率いる源氏軍が雪中行軍して来るのを、あらかじめ察知して待ち受けていた安倍貞任(あべのさだとう)麾下(きか)の騎馬隊が、雪原を駆け下りて襲撃する場面の展開が、私の中でこの「早池峰」の曲想にだぶってしまいます。このシーンは「炎立つ」のオープニングにも使われていました。

 曲中のブレイクポイントで、「パッパカパッパカパッパカパッパカポッポコポッポコ…」という音が、ステレオ音場の左端、そして右端に聴こえてきます。この音、私は馬蹄を表現していると思っているのですが、これは姫神せんせいしょんのドラム/パーカッション佐藤将展さんが、「春風祭-遠野物語への旅-」でも使った大小5個の炊事用のボウル(毛布の上にうつぶせに置かれている)を、パーカッション用のマレットで叩いて出しています。

 ちなみに本日平成22(2010)年6月14日は、柳田国男の「遠野物語」が明治43(1910)年6月14日に聚精堂から発刊されて、ちょうど100年にあたります。

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 後世この本は、姫神・星吉昭さんの東北観や創作活動に大きな影響を与える事になりました。

 この「早池峰」が収められた姫神せんせいしょんのアルバム「遠野」は、その結晶だと思います。そして「遠野物語」の影響は、その後の作品にも続きました。ある意味、呪縛だったかもしれません。

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